戦略諜報局長ドノバン



アメリカ政府の正式なスパイ部隊として、大戦中、大活躍するOSS(戦略諜報局)は、ルーズベルト大統領の命令で、1943年6月13日に誕生した。


局長には、第一次世界大戦の英雄、ウィリアム・J・ドノバンが任命された。彼の勇猛は、綽名(あだな)の「ワイルド・ビル」に象徴されている。「ビル」は「ウィリアム」の愛称で、「ワイルド」には「野蛮な」とか「荒々しい」という意味もあるが、「他の人が真似のできないことをする」という尊敬の念も含まれている。


そのドノバンが、1945年5月11日、ルーズベルトの死後、大統領になったトルーマンに、「スイス駐在の日本公使・加瀬俊一(かせしゅんいち)が、休戦と和平につき会合を持ちたいと言ってきました。加瀬公使はソ連を会合に加えると、ソ連の権威を高め、アジア全域が共産化される恐れが強くなるので、アメリカとイギリスだけと直接話し合う方が好ましいと、考えているようです。加瀬の条件は、日本の共産化を防ぐ唯一の手段としての皇室の維持であります。加瀬は、アメリカで日本問題の最高権威だと信じているグルー国務次官も同意見だと思うと言っております」と報告する。



ジョセフ・C・グルーは、ハーバード大学卒で、1932(昭和7)年2月から1941(昭和16)年12月まで駐日大使であった。東京に在任中、開戦となり、1942年6月25日、日米交換船で横浜から帰米した。グルーの夫人アリスは、ペリー提督の孫。




スイス公使・加瀬俊一の和平工作



加瀬俊一は東京帝国大学に在学中、外交官試験に合格し、大学を中退して外務省に入り、中国、ドイツ、ポーランド、ソ連、アメリカに在勤した。1942(昭和17)年、特命全権公使兼大使館参事官となってイタリアに在勤、1944(昭和19)年にはスイス全権公使となって終戦を迎えた。戦後、1952(昭和27)年からメキシコ大使やドイツ大使を歴任し、1956(昭和31)年、胃癌で死去した。


5月31日、OSS局長代理チェストンは、トルーマン大統領に、「在ポルトガル日本公使館の井上益太郎参事官も、日本は戦争を停止する用意があると言ってきました。また、アメリカと日本は、共産主義のソ連に対抗する上で、共通の目的を持っているではないか、と言っております」と伝えた。


6月4日、OSSのG・エドワード・バクストンはトルーマン大統領に、「ヨーロッパ駐在で日本海軍の代表的人物でもある元ベルリン駐在武官補佐官で、現在スイス大使館付海軍武官の藤村義朗(海軍中佐)は、『日本政府は降伏する。できることなら、現在の絶望的な状態でも面子を保ちたい。日本海軍は、共産主義の擡頭(たいとう)と国内混乱を防止するために天皇を維持する必要がある』と言っております」と報告した。



彼のスイスでの活躍は、戦後、テレビ・ドキュメンタリー「欧州から愛をこめて」や「祖国へ――スイスからの緊急暗号電」となり、映画「アナザーウェイ」のモデルにもなった。藤村は、麗澤大学の母体である廣池学園(千葉県柏市)の理事およびモラロジー研究所の評議員としても活躍した。




ソ連への和平仲介策


一方、駐ソ連大使佐藤尚武は、スターリンか外相モロトフと会見しようと懸命の努力をしたが、両者とも会えないと返答した。スターリンは佐藤大使に会いたくない。1945年7月中旬に予定されていた極秘のポツダム会議の準備をしていたからだ。


佐藤大使も日本政府も、ルーズベルト、スターリン、チャーチルが1945年2月11日に、クリミヤ半島の小さな町ヤルタで取り交わした「協定」を知らなかった。


ヤルタ協定には、「ドイツが降伏し、かつヨーロッパにおける戦争が終わった後、2カ月または3カ月を経て、ソ連は日本との戦争に参加する」との確約が交わされていた。

12.org.jpg


ルーズベルトとチャーチルは、ソ連の約束を取りつけるため、戦後の領土分割(戦利品の山分け)できわめて寛大な条件をスターリンに出した。さらに、ヤルタ協定では、明治日本が勝利を収め、世界の桧舞台に躍り出る足場となった1904〜05年の日露戦争を「日本の汚い裏切りの攻撃」ときめつけた。


スターリンは、ロシア帝国が失ったもの全てを取り戻し、その上、日本の領土をも奪おうと企んでいた。戦勝者にならねば、日本から奪う権利がないと知っていたスターリンは、瀕死の日本に背後から攻撃を仕掛け、漁夫の利を手に入れようと企んだのだ。