ルーズベルト大統領死去

ヤルタ会議の2カ月後、4月12日、ルーズベルトが脳溢血で死去した。63歳だった。


ルーズベルトは1882年、ニューヨークの富豪の家に生まれ、ハーバード大学を卒業し、生涯、政界で活躍した。1921年、39歳の時、ポリオに冒され下半身不随となる。1933年、フーバーを破って大統領になり、世界大恐慌からアメリカを立ち直らせた。彼は、大統領を4期務めたアメリカ史上最初の人物。4期目の1945年に死去。偉大な大統領の1人に数えられている。



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大統領職を継いだ副大統領トルーマンは、スターリンが何を望んでいるかを探るため、ルーズベルトの友人で個人的顧問だったハリー・ホプキンズをモスクワに派遣した。


スターリンの思惑


ホプキンズ対スターリン会談は、1945年5月26日から6月6日まで続き、会談にはアメリカ駐ソ大使W・A・ハリマンとソ連外相モロトフも出席した。


ホプキンズは、「大統領のみ閲覧可(For the Eyes of the President Only)」の極秘電報で、会談の結果を毎日トルーマンに伝えた。


ホプキンズはスターリンに、「日本は完全に破壊される前に無条件降伏(surrender unconditionally)するだろうか」と尋ねる。


スターリン「そう思わない」。


ホプキンズは、天皇についてのスターリンの見解を求める。

スターリン「天皇という地位はなくした方がよい。現在の天皇(昭和天皇)は精力的な指導者ではないので、問題を起こすことはないが、将来、行動力のある強 力な人物が天皇になれば大きな問題を起こすだろう」「日本は最後の判決を下されることになったのだ。日本人もそれを十分知っている」。


ホプキンズはトルーマンに、「スターリンは日本を分割し、(本州の一部を)ソ連領土としたいと考えており、占領地域に関してイギリスと我が国と協定を結びたいと希望しております」と報告する。


スティムソン陸軍長官


ホプキンズがワシントンへ戻った後、ヘンリー・L・スティムソン陸軍長官がトルーマン大統領に将来を見通した「メモ」を提出した。このメモが「ポツダム宣言」になってゆく。従って、スティムソンがポツダム宣言を提案した最初の人物である。


スティムソンは大統領に、「時期を選んで、アメリカ、イギリス、中国(そしてもし交戦国になっているのならロシア)の代表者が日本に警告を与え、もし、日本が降伏するならば、将来の平和のために、完全な非軍国主義化の達成を保証すべく、連合国軍による占領を受け入れるよう日本に呼びかけるべきです」と勧めた。

 

陸軍長官の戦略


連合国が日本に降伏を呼びかける理由をスティムソンは次のように言う。



⑴ アメリカの日本上陸と武力占領は、「長期間を要し、我が方にとって犠牲の大きい困難なものとなろう」「日本の地形は日本人による長期の塹壕防衛戦には理想 的である」しかし、「我々の戦車作戦にとっては、日本の地形はフィリピンやドイツより遥かにやり易い」。

⑵「日本人は非常に強い愛国心を持っており、我々の上陸を撃退するために最後まで抵抗せよという(日本帝国政府または天皇からの)狂信的呼びかけには間違いなく応える」こうした事態が起きた時、「我々は、日本列島を、ドイツの場合よりもさらに完璧に破壊しなければならないであろう」。

 

しかし、「我々にとって極めて有利な条件」があると、スティムソンは続ける。



⑴「日本には同盟国がない」。

⑵「日本海軍は壊滅しており、我々の海上および潜水艦による封鎖により、日本国民に必要な食糧、物資の動きを完全に遮断できる」。

⑶「日本は、我が軍による大都市、工業地帯、食糧供給地に対する集中的な空襲に全く無防備である」。

⑷「日本にとって、アメリカとイギリス軍だけが敵ではなく、戦力を強めつつある中国もあり、ソ連の無気味な脅威もある」。

⑸「我々には消耗知らずで無傷の工業力があり、日本には何も残っていない」。

⑹「我々は、日本の奇襲(真珠湾攻撃)によって受けた犠牲のために、道徳的に優位な立場にある」。



現状を具体的に羅列した後、「日本は、現在アメリカの新聞やその他の論評で伝えられているよりは遥かにこうした条件に敏感に反応を示すと私は信じております」。



さらに、「日本は、我々と全く異なった精神構造を持った狂信者によって構成された社会ではありません。日本人は、この100年の間、非常に頭の切れる民族であることを十分証明しました。前例のないほどの短期間に、西洋文明の複雑な技術を導入しただけでなく、西洋の政治・社会思想までもうまく採用してきました。僅かに6、70年間で日本が達成した進歩は、歴史の中でもっとも驚くべき国造りの偉業であります」と、高い評価をした。


スティムソンは、陸軍長官を2度、1911~13年と1940~45年務める。1923~33年、国務長官として、日本の満洲占領に強く反対した。