日本への空襲はじまる


ポツダム会議が、日本をどのように支配するかを決めていた時、日本の都市はアメリカ空軍の思いのままに爆撃されていた。


ポツダム会議の3年前、東京が日本史上初めての空襲の洗礼を受ける。


1942(昭和17)年4月18日、晴れ、正午すぎ、アメリカB25爆撃隊16機が陸軍飛行士ドーリトル少佐に指揮され、南太平洋に浮かんでいた航空母艦「ホーネット」から飛び立ち、1200キロ離れた東京に13機飛来し、焼夷弾(しょういだん)を降らせた。

屋根すれすれからの爆撃であった。同時に、横浜も爆撃された。もう3機は、神戸と名古屋を空襲した。



16機は中国に向かったが、1機は燃料不足でソ連のウラジオストックに着陸し、15機のうち2機は不時着し、3名死亡、8名は日本軍に捕らわれた。その内、3名は「戦犯」として上海で処刑された。

終戦直後(昭和21年4月11日)、アメリカ軍・GHQは、これら3人の飛行士を死刑にした日本人の将校4名(澤田茂中将ら)を東京から上海に連行し、裁判にかけた。死刑を求刑されたが、重労働5年で命は助けられた。


南太平洋を牛耳り、本土を完璧に護っていると思われていた日本軍は、レーダーを持っておらず、ドーリトル少佐を見逃してしまった。



激しく動揺した東部軍司令部は、「撃墜機数9機にして......皇室は御安泰にわたらせられる」と発表したが、都(東京府)民は落ちた敵機を1機も見ていない。死者50名と被害は少なかったものの、日本国民、大本営への精神的打撃は大きく、国中に恐怖の戦慄が走った。


アメリカ軍の士気は沸き上がった。



大本営・日本連合艦隊は、敵討ちに出る。空母ホーネットの基地であるミッドウェイ島を襲うが、待ち伏せていたアメリカ空軍に返り討ちされ、日本海軍は空母4隻と、真珠湾攻撃で卓越した才能を発揮したパイロットを数多く失った。

日本帝国は、この打撃から2度と立ち直れなかった。

惨劇は、まだ始まったばかりである。

 

焼夷弾の嵐


東京は、日本降伏の1945年8月15日までに、100回以上の空爆を受け、死臭漂う黒い瓦礫の山にされる。



3月10日、午前零時8分、空を覆うようなB29の大編隊(280〜340機)が、低空から東京に侵入し、民家の上に130万発(2000トン)という信じられない数の火災を引き起こす焼夷弾を落とした。真夜中の東京は炎の海と化し、隅田川は煮え湯のように沸騰した。

特に向島・浅草一帯は生き地獄。



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元麗澤大学の小松雅雄先生は、「あの日、あの空爆の後も、地下鉄は動いていた。我々は早稲田大学の院生で、教授の家が浅草にあったので、心配だったので行くことにした。地下鉄の駅へ降りていったら、浅草方面から列車が入ってきた。列車が止まると同時に、皮膚が溶けたように焼け爛れた人間が流れるように出てきた。衣服からは煙が......。人間の焼ける匂いは一生忘れられない」と回想された。



黒焦げになった者、灰になった者、行方不明の者総数、10万人以上。


「憤怒・滅敵に起て」と、首相小磯国昭(こいそ・くにあき)陸軍大将が全国民に呼びかけても、東京への空襲はその後、止むことなく、「死者総数30万人だ」とアメリカが公言している。



小磯は、陸軍大学を卒業。満洲国建国を支持し、朝鮮総督を務め、1944年7月に内閣を組織し、翌年4月、沖縄激戦中に総辞職。A級戦犯で、終身刑となり、病死する。