筒抜けの日本軍暗号



日本降伏は、今や時間の問題であった。東京の東郷茂徳(とうごうしげのり)外相とモスクワの駐ソ佐藤大使が交わした無数の極秘電報は、絶望的事態をありありと示していた。

スターリンかモロトフに会見を求めても相手にしてもらえなかった佐藤大使は、1945年7月20日の長文の極秘電報で、「将兵そして全国民は、圧倒的に優勢な敵の爆弾と砲撃によって戦闘能力を奪われている。たとえ彼らが決死の戦いをしても、国家は救われないであろう。7000万人の国民の犠牲によって陛下の安全が確保されると閣下はお考えか」と訴えている。

アメリカ情報機関は、このような日本の秘密電報を全部探知し、解読していた。

日本政府の暗号は、1941(昭和16)年12月7日の真珠湾攻撃の1カ月程前ほぼ完全に破られていた。FBIが夜中、日本大使館に侵入し、暗号表を写し取ったと伝えられている。

どこの国でも暗号をたびたび変えるのだが、日本は暗号を一度も変えず、終戦になるまで、暗号が破られていることを知らなかった。これは、日本が敵を過小評価したツケか。それとも、情報の価値を認識しない国民が支払った惨めな代償であったのだろうか。

アメリカだけが知っていたのではない。

スターリンもポツダムで、トルーマンに「日本は降伏が差し迫っていることを十分知っている」と言い、「日本政府がソ連政府に戦争を終結させる仲介者になることを要請するために近衛文麿をモスクワへ派遣したいと言ってきたが、この提案には何ら新しいものがないので拒絶した」とトルーマンに伝えた。

スターリンは、瀕死の日本帝国と戦争をする準備に入っていた。日本の絶望的な現状が連合軍に筒抜けであったが、ソ連は見せかけとはいえ日本と中立条約を維持していた。

ヨーロッパでの和平工作


一方、西ヨーロッパにおける日本の和平への手探りは一段と活発となり、連合国の要求に対し多くの譲歩を示し始めた。

ドイツ・ヴィスバーデンにいたOSS(戦略諜報局)代表のアレン・ダレスは、仲介者を通して岡本清福(陸軍中将)からの接触を受けた。アメリカは岡本をヨーロッパにおける日本の情報機関の中心人物と信じていた。

アレン・ダレスは、CIA(米中央情報局)長官を1953年から61年まで務める。アレンの5歳上の兄、ジョン・フォスター・ダレスは、1953年から59年まで国務長官をした。兄は日本との「サンフランシスコ平和条約」で手腕を発揮する。


加瀬公使と岡本中将の連携


駐スイス公使加瀬と岡本中将は、東京の梅津美治郎(うめづよしじろう)参謀総長と直接密接な連絡をとっていた。彼らは、ダレスに、日本の無条件降伏はもはや時間の問題で、日本の関心は皇室の維持と、軍事政権から1889(明治22)年の帝国憲法に定められた議会政治への復帰である、と言った。

ドノバンOSS局長はトルーマン大統領に、「ダレスによれば、これら2人の日本人は、天皇のみが日本の無条件降伏について決断できるので、天皇の支持を得るためには皇室をなんらかの形で存続させる望みを与えなければならない、と言っております。それ故、彼らは、皇室の維持を強く主張しているのです」と報告した。さらに、「ドイツ国民は社会機構の崩壊に苦しんでおり、これはドイツが絶望的になった後、なお何カ月も無駄な戦闘を続けたためだ、ということを日本人は十分に理解しています」とも付け加えた。

7月19日、岡本は大本営・参謀総長に長文の電報を送り、日本は明らかに戦争に敗れたのだから、その当然の結果を受け入れるべきであると進言した。

日本の参謀総長は、返信せず。

7月21日前後、加瀬公使は東郷外相に、スイスにおける活動、およびダレスとの接触について伝えた。

「報告することは、それだけか」というのが東郷の返答だった。

加瀬は、これを東郷が和平交渉を続けるよう激励したものと解釈した。

東郷茂徳
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東郷茂徳は、駐ドイツ大使、駐ソ連大使を歴任し、1941年10月の東條内閣の外務大臣に就任し、破局寸前のアメリカとの関係改善に努めたが、失敗に終わる。1946年4月、極東軍事裁判で戦犯として起訴され、20年の禁錮刑を受け、1950(昭和25)年7月23日、アメリカ陸軍病院で死去した。