残虐ソ連兵


8月8日、駐モスクワ大使佐藤は、外相モロトフの執務室に呼びつけられた。

モロトフは、「ソ連政府は明日、8月9日より、日本に対して戦争状態に入る」と宣告した。8月9日午前零時10分、ソ連軍は満洲に突入し、組織的壊滅作戦を始めた。

20.org.jpg

満洲でのソ連兵の残虐をアメリカのスパイが目撃している。

日本が降伏した1カ月後の9月中旬、ドノバンOSS局長はトルーマン大統領に、「ソ連兵は日本人と中国人を無差別に殺害しております」「ソ連兵は略奪を科学的と言えるほど徹底的に実行し、機械のあらゆる部品、商店及び倉庫のあらゆる商品を持ち去っております。奉天(瀋陽)は、彼らが立ち去る時には空っぽの無人の街となるでしょう」と報告した。

元シベリア兵捕虜の体験


ソ連の捕虜になり、シベリアに連れて行かれ、生き残った日本人から、私自身話を聞いたことがあった。ワシントン大学に留学していた時、夏休み中、アラスカ半島のほぼ無人島に近い僻地で、デル・モンテ社のサケ缶詰工場でアルバイトをしていた時だ。

彼は北海道出身で、満洲でソ連軍の戦車で追いつめられ、捕虜になった。アラスカの缶詰工場で、日本へ輸出するイクラやスジコを製造する日本の商社に雇われ、この地の果てで働いていた。


「ソ連兵は戦車で日本人の女、子供たちを轢(ひ)き殺した直後、戦車の中から出てきた。それぞれ、手にペンチを持って。女、子供たちの死体から、また生きている者たちから、ペンチで金歯、銀歯を抜き取り、指輪を取る時は、指をペンチで切り千切(ちぎ)るんだ。オレがどうしてシベリアで生き残ったかって? そいつぁ、話したくねえなあ......」

「オレたち日本人捕虜はシベリアの拘留所・バラックに連れてゆかれた。多くの日本人が着く前に死んだ。飢えと病気、衰弱で死んだ。オレたちの拘留所には500人ほどの捕虜がいた。近くの森林で木を切り出すのが仕事だった。食べ物が不足しているので、毎日、朝になると誰かが、死んでいた。冬になると、もっと死んだ。地がカチカチに凍り、死体を埋めることができないので、バラックの外に積んどくんだ。靴とか軍服は剥ぎ取り、オレたちが使う。凍った丸裸の死体が すぐに山積みになる」

「遅い春が来ると、死体を埋めなければならない。地(つち)もツルハシだと掘れるようになる。死体はまだ凍りついていたままなので、素手では動かせない。ツルハシで遺体を分けるんだ。ツルハシで戦友たちの遺体に傷つけることを誰もやりたくない」

「ソ連兵の看守たちもそれを十分解っており、遺体の処理をした者にはジャガイモを特別に与えると言った。2、3人の者が飢えの恐怖から逃げるため、ツルハシを使ったが、途端に吐いて、止めた。オレはこんなシベリアで死んで堪(たま)るかと思っていたので、志願した。ツルハシを氷のように硬い死体に打ちつけると、ガチンガチンと金属的な音がする。できるだけ顔とか頭を避けているんだが......。ツルハシで同じところを4、5回打ちつけると、凍った血が溶け、流れ始める。生きているのではないか! と思い、オレも吐いた。でも、続けたんだ。 ジャガイモを食べて生き残った」

「500人中、生き残ったのは7、80人ぐらいだったかなあ。生き残って、恥ずかしいと思ったよ......。でも生きていたかったんだ」


シベリアに拘留された日本兵・民間人の総数は明確でないが、70万から90万人と推定されている。