シベリア無残



アメリカ陸軍省軍事情報局は、1946年8月に、「日本人捕虜78万5000人がソ連に拘留されている」と秘密報告に書いている。

ソ連は、1950年4月末で、日本人捕虜引き揚げは完了したと発表した。この発表に怒ったのは東京のGHQだ。

シーボルド政治顧問(外交局長)はアメリカ代表として、1950年5月10日午前10時に明治生命ビルで開かれた113回対日理事会で、「まだ37万4000名の行方が説明されていない。これらの人々は生存してソ連当局に拘留されているのか、あるいは長いシベリア拘禁中の屈辱的な状態の下に死亡したのかいずれかである」とソ連を攻撃した。

しかし、この非難を受けることを察していたソ連代表は、欠席していた。


マッカーサーへ嘆願


井原一雄氏(東京・丸の内で弁護士)からお聞きした話を紹介する。この時の日本国民の心理をよく表わしていると思う。


「ボクが疎開していた長野県の小さな村から、戦争中にも満洲へ移民した人たちがかなりいた。家族全員で移民した人たちもあり、村には空家もあった。戦争が終わり、引揚者が次々と舞鶴に帰ってきたが、この村の人々は帰ってこない。」

「小学校の先生がボクたちに、マッカーサー元帥に手紙を書いて、早く帰してもらえるようにお願いしましょう、と言われ、ボクたち生徒全員が、平仮名で、『まっかーさーげんすいさまどの』宛に手紙を書いた。ボクは殿と様を一緒に付けるとより丁寧になる、と思った」


このような嘆願書が、毎月1万3000通ほどマッカーサー元帥に寄せられているとGHQは発表した。



スターリン
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スターリンにとって、日本兵捕虜を50万、60万人殺すことなど朝飯前である。彼は1937、38年の2年間で自国民200万人を殺したと伝えられている。