御聖断

翌11日、バーンズ国務長官はトルーマンと協議の後、ポツダム宣言の中では曖昧になっていた「天皇大権」につき日本政府に回答した。


「降伏の瞬間から、天皇および日本政府の統治権は連合国軍最高司令官に従属する」


その夜、日本政府は、陸軍の強硬な反対をおして、ポツダム宣言の受諾を決定した。その決定はベルンのスイス政府を通してアメリカに伝達された。同じ日、トルーマンは他の連合国に、連合国軍最高司令官(Supreme Commander for Allied Powers, SCAP)にダグラス・マッカーサー元帥を指名すると伝えた。

14日朝、天皇陛下は、内閣が天皇の身の安全について連合国の保証が十分でないと激論しているのを目の前で聞き、「朕が身はいかになろうとも」戦争を継続して国民の苦しむのを見るに忍びない、と論争に終止符を打たれた。

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大本営の参謀総長は、ヨーロッパで日本の情報機関のトップであった岡本中将に電報を打ち、岡本と彼の同僚によるスイス・ベルンでの働きが、最終決断を下すのに非常に役立った、と感謝した。

同日、ベルンの岡本中将は自決した。梅津参謀総長は、ベルンの岡本の事務所に「国家最悪の危急に際して、彼が示した献身的な働きに対し、私は深い感謝の念を述べたい」と哀悼の言葉を贈った。この電文でさえ、アメリカに傍受されていた。


ミズーリ号戦艦での降伏調印


9月2日、日本代表(重光葵外相と梅津参謀総長)は戦艦「ミズーリ号」で降伏文書に調印した。

梅津は東京裁判でA級戦犯として終身禁錮の判決を受け、服役中の1949(昭和24)年1月8日に死去した。重光はA級戦犯として禁錮7年の判決を受け、巣鴨に収容された。

同日(9月2日)、天皇は、日本国民は連合軍に抵抗せず、降伏文書の条項に従い行動せよ、という声明を出された。天皇はすでにマッカーサーの命令に従われていたのである。

3発目の原爆は8月17日か18日に横浜か小倉に投下されることになっていた。


戦艦ミズーリ号にある調印式記念プレート

23.org.jpg(写真:著者撮影)

ハワイに永久停泊したミズーリ号


戦艦ミズーリ号は、私が長く住んでいたシアトルの近くにあるブレマトン軍港に、アメリカの「記念館」として停泊していた。2度訪れた。

1度目、1965年の夏、ミズーリ号の甲板の上に、「マッカーサー元帥が立たれていた場所」云々と歴史的な降伏につき、数々の説明文が掲示してあった。それらの文書の中で、「日本人」は「Jap」と書いてあり、その時の侮辱感は長く忘れることができなかった。

アメリカ政府のお墨付きで、1965年、戦後20年を経て、「Jap」である。2度目は、それから10年後。「Jap」はどこにもなかった。ヴェトナム戦争中、ミズーリ号は参戦した。

1998(平成10)年6月21日からホノルルの真珠湾に永久停泊している。