対日理事会の設置


モスクワ会合が始まる2カ月前、10月22日、バーンズと駐ソ大使ハリマンがスターリンと話し合いに入ることを知った時、マッカーサーは陸軍省に「対日理事会には反対である」と言い、ソ連やイギリスが占領行政に首を突っこんでくると、「指令の統一という基本原則が壊される」と警告し、さらに、バーンズの提案は「最高司令官(マッカーサー自身)が降伏条項を達成するのを不可能にするだけでなく、日本の支配さえも疑わしくするものだ」と非難した。

「私は心底からいかなる変更にも反対する」と再度強調した。

バーンズはトルーマン大統領と協議の後、マッカーサーの異議を却下し、「対日理事会は設立される」と返答した。

マッカーサーの失望は深かったが、対日理事会(Allied Council for Japan, ACJ)は「最高司令官と協議し勧告する」だけとなった。そして、それはマッカーサーの支配が絶対的な東京に置かれた。彼は、対日理事会を思いのまま牛耳ることができた。

マッカーサーのお目付役


しかし、遠く離れたワシントンの旧日本大使館に置かれた極東委員会(Far Eastern Commission, FEC)は、強力な権限を持っていた。

極東委員会は、⑴「日本占領に関する政策を作る」⑵「マッカーサーが出した指令や政策決定の検査をする。彼の行動を、加盟メンバー国の要請に基づいて調査する」。

これはマッカーサーにとって脅威である。

1946(昭和21)年2月26日、極東委員会が初の会合を開いたとき、バーンズ国務長官は、「アメリカ政府は日本占領は連合国全体の責任であると思っているし、この責任は今や極東委員会のあなた方のものである」と述べた。

マッカーサーは「この責任」は自分1人のものと信じていた。

4月13日、マッカーサーは、極東委員会議長フランク・R・マッコイ少将(アメリカ人でマッカーサーを英雄と崇めている男)に、「極東委員会は政策を立案するだけの機関で、日本の行政には何の権限をも持っていない」と断言し、「極東委員会は、最高司令官あるいは日本政府から、事前の承認を求める権限を与えられていないというのが私の考えだ」と言い切った。

マッカーサーは、自分より強力な権限を持っている極東委員会の議長に毒づいている。

マッコイは陸軍大学卒で、1923(大正12)年の関東大震災の日本救済委員長を務め、1932(昭和7)年には、「満洲事変」を調査した国際連盟のリットン調査団の一員であった。リットン報告書で、「日本は満洲から撤退せよ」と断言されたため、松岡洋右代表(後、外務大臣、A級戦犯)は、国際連盟会場から退場し、その後、日本は連盟からも脱退した。