マッカーサー vs. バーンズ

バーンズ国務長官は、アメリカ議会の非公開の席(1945年12月)で、「あの男(マッカーサー)はうまく職務をこなしているが、あいつはいつも花形役者(a prima donna)になりたいのだ。私は彼を30年に亘って知っているのでよく分かるのだが、彼はとんでもないことをし、途轍(とてつ)もない過ちを犯す可能性が非常に強い」と言った。

マッカーサーを大英雄と崇拝している陸軍省は、バーンズの悪口をマッカーサー元帥に伝えた。

過ちを犯すかどうかは別にして、アメリカだけで日本を単独占領するというマッカーサーの理由は実に簡単であった。


「アメリカは太平洋戦争の勝利に最も貢献しただけでなく、日本占領からくる負担も殆(ほとん)ど1人で背負っているのだから、占領政策を作る道義的かつ正 当の権利を主張するのが当然である」


これは、マッカーサーが陸軍省次官ウィリアム・H・ドレイパーに送った極秘の電報である。ドレイパーは、占領中、3度東京でマッカーサーと対談している。ドレイパーは経済専門家であった。

マッカーサーは『回顧録』のなかでも、「連合国のなかに、我々が必要とした時に軍隊を派遣してくれた国はひとつもなかった」と繰り返した。こうした発言でさえ外交辞令であった。個人的に、マッカーサーは「極東委員会は討論集会に成り下がった」とか、「対日理事会の唯一の貢献は妨害と中傷だ」と罵っている。

しかし、マッカーサーと極東委員会との摩擦の噂が広まった時、彼は1946年6月14日のマスコミ発表で「何の擦(す)れ違いもない」と否定した。

極東委員会と対日理事会は、マッカーサーの権力独占に対し、どうすることもできなかった。極東委員会は強い権限を持っていたかもしれないが、それは日本から海を越え、大きな大陸の遠い東海岸のワシントンに置かれた。

マッカーサーの全て独断


マッカーサーは戦闘の余燼燻(よじんくすぶ)る戦場の司令官で、即座にものを決めた。

31.org.jpg

極東委員会は、トルーマンがすでに1945年9月6日に承認した「初期対日政策」を2年2カ月経った後、やっと承認した。その2年2カ月の間、マッカーサーは既に数々の重要な決定(例、日本国憲法)を下していた。にも拘らず、極東委員会の承認文を「近代史における偉大な政策決定文書のひとつ」と称えた。

極東委員会と対日理事会設立は、「日本占領は連合国軍によって行なわれている」ことを宣伝するアメリカの掛け声だけに終わった。アメリカ政府は「戦利品・日本」を、ソ連と山分けしようと思っていなかった。この姿勢は、マッカーサーが共産主義の拡大を警戒するにしたがって、さらに硬化した。

事実、陸軍省軍事情報局はトルーマンに、「ソ連のプロパガンダは日本におけるアメリカの威信を切り崩す努力を強めております」と報告し、また、ソ連政府の機関誌『イズベスチヤ』がマッカーサーの日本降伏1周年(1946年9月2日)の声明を「アメリカが日本を次の戦争への踏み台にしようとするものだ」と非難したことを伝えた。

冷戦が熱くなりだした。