平和に対する罪



東京裁判(正式名は「極東国際軍事裁判」)は、1946年5月3日に、東京市ケ谷の陸軍省大講堂で開始された。この建物は、三島由紀夫が、1970(昭和45)年11月25日、割腹自殺するところである。

A級戦犯28人の「平和に対する罪」の審議が、約2年10カ月間続く。

裁判中、大川周明(おおかわしゅうめい)は発狂し、免訴となる。大川は、東大卒で法学博士。軍事国家主義を正当化し、軍部では「理論家」として大切にされた。大東亜戦争の推進者、1957年12月24日歿。

松岡洋右は、14歳で渡米し、皿洗いなどをし、苦学の末、オレゴン大学法律学部を卒業。満洲鉄道の社長等を歴任する。日独伊三国同盟を締結した時の外務大臣。裁判中の1946年6月27日、肺結核で東大病院で死去。

永野修身(ながたおさみ)も病死。永野は、海軍元帥で、真珠湾攻撃の最高責任者であった。裁判中の1947年1月5日歿。

残った25人に対する判決が、1948年11月4日に発表された。判決文の朗読だけで、4日から12日までかかった。

7名、絞首刑。
16名、終身禁錮。
2名、禁錮刑7年、20年。

天皇の側近、木戸幸一は終身禁錮刑。1955(昭和30)年12月仮釈放。

マッカーサーは、判決文に目を通し、「判決どおり宣告刑の執行をせよ」と命じる。

護送中のA級戦犯
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皇太子殿下へのプレゼント


1948(昭和23)年12月23日、午前零時1分より、巣鴨拘置所の中庭に作られた13階段の絞首台で、絞首刑(death by hanging)が最初の4人、次の3人の順で執行される。

12月23日は、今上天皇(当時皇太子)のお誕生日である。

この日を選ぶマッカーサーだ。

厚い雲が垂れこめ、星も見えず、12月末であったが、風が暖かかった。

絞首台に登る前、「死刑囚」たちは、「天皇陛下万歳、大日本帝国万歳」と三唱した。


土肥原賢二(65歳、陸軍大将、満洲事変の計画に参加、日中戦争推進)

東條英機(64歳、陸軍大将、真珠湾攻撃、日米開戦の責任)

武藤章(56歳、陸軍中将、日中戦争、日米開戦を積極的に支持)

松井石根(70歳、陸軍大将、南京大虐殺の罪)


連合国軍からの立会人は、対日理事会議長シーボルド政治顧問、ソ連のデレビヤンコ中将、中国の商震、イギリス連邦代表のパトリック・ショー。

そして、次の3人の処刑。


板垣征四郎(63歳、陸軍大将、満洲事変の計画と推進)

廣田弘毅(70歳、元首相、侵略戦争を積極的に謀議) 文官としてただ1人、死刑。静子夫人は、東京裁判が始まった15日後、昭和21年5月18日 に服毒自殺。

木村兵太郎(60歳、陸軍大将、戦争推進の罪)


午前零時35分に終了した。死体は火葬にされ、灰は誰も知らない場所か、東京湾に捨てられた。