灰の山


マサチューセッツ工科大学学長カール・T・コンプトンは、アメリカ空軍の爆撃の見事さに驚き、トルーマン大統領への報告書の中で、「自分の目で確かめた破壊の方が、偵察写真に基づく報告よりずっとひどく、東京及びその周辺都市は210平方マイルの全域のうち、約85平方マイルが灰の山です」と記述した。

エマーソンはバーンズ国務長官に、「経済の危機、飢餓の恐怖、闇市をあてに生きる狂気じみたその日暮らしの生活が、日本社会のあらゆる階層に広がり、全ての日本人の考え方を左右しております。......政党、選挙、民主主義、天皇といったようなことは、茶碗が空の時には空理空論の類いであります」と報告した。

マッカーサーは、「私が真っ先に手をつけたことの1つは、日本人たちに食べさせるために軍用台所を立てたことだった。もしそれをやっていなかったら、何千人という日本人が餓死していたことだろう」と述べている。

敗戦国民に少々食糧


マッカーサーは、占領軍が使用していない多くの旧日本軍の飛行場を、野菜の栽培用地として使えと指令した。食糧要求デモが起きないようにするためだった。

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戦略諜報局(OSS)は、1946年4月、「日本国内の食糧はこの先6カ月間、都市住民の必要最小限も満たせない。都市に広がる食糧不足の危機を救うには輸入によるしかない」とマッカーサーに進言している。第8軍対敵諜報部の報告はさらに悲観的で、1946年7月8日現在、「食い繋げる食糧は東京地区では4・2日分しかない」。

他の主要都市も同様の苦境に直面していた。

マッカーサーは、食料品、特に缶詰、玉蜀黍(とうもろこし)、小麦粉をアメリカから輸入し始めた。彼は、食糧を積んだ宝船が、横浜か神戸に入港する度に、そのことを大々的に報道した。これにより飢えた国民と占領軍との関係は良好なものになったし、マッカーサーの権力と威信も高めた。

親愛なる元帥様


1946年5月29日、吉田首相は「我が親愛なる元帥様」宛に手紙を書き、「元帥の深い配慮があったからこそ、我々は暴動が起こるほど差し迫った危険な状況を和らげることができました」と、114万キロの小麦粉に対する「深い感謝の念」を伝えた。

1946年7月5日、衆議院は、マッカーサーがアメリカから多量の食糧を輸入し、国民の危機を救ってくれていることに「深い感謝の念」を表した。

空腹のままでは


しかし、マッカーサーが最も関心を持っていた政治改革には、日本国民は無関心だった。

国民の気持ちを端的に示した例として、B29の大空襲を受け、いまだ復興もままならぬ福岡市の市長選挙が挙げられる。

75パーセント以上の有権者たちが棄権したので、市長選は無効となった。