「アメリカ帝国主義」



中山研一氏の『現代社会と治安法』(岩波書店、1970年)によると、GHQは1945年9月から1946年1月までに、670に及ぶ新聞記事を拒否した。

これらは、マッカーサーがマスコミの力を十分認識しており、彼が自分の評価に関していかに過敏に反応したかを示すものだ。

「アメリカ帝国主義」という言葉はタブーだった。「アメリカ」と「帝国主義」という2つの言葉は矛盾している、というのがマッカーサーの考えだ。


原爆報道



原子爆弾も検閲の格好の対象だった。例えば、松浦総三氏は『占領下の言論弾圧』(現代ジャーナリスム出版社、1969年)の中で「原爆は、戦争を短縮したのであり、平和のために投下された」という記事だけが許可された、と書いている。

ロバート・リフトンは、Death in Life: Survivors of Hiroshima(『生きながらの死――ヒロシマの生存者たち』 1967年)の中で、「原爆に関する検閲は、原爆について書くことは、日本人の報復心を煽る結果になるとの恐怖心が大きな動機となっていた。だが、原爆の破壊力のあまりの物凄さをみて、アメリカ人が困惑し、自責の念にかられたことも、原爆を検閲の対象にさせた」との見解を述べた。

アメリカが原爆について、いかに神経過敏になっていたかを示すものとして、1947年4月に行なわれた広島市長選で、ある候補者がラジオで話をしている途中に、GHQが放送中止を命令した事件があげられる。その候補者が原爆について肯定的なことを言わなかったからだ。


記録映画の末路



広島と長崎の惨状の記録映画製作について、伝説的なエピソードが残っている。

30人以上の日本人カメラマンが、核物理学者、医者、生物学者、建築家たちの協力を得て、1945年8月から12月にかけて、記録映画にとりかかった。ところが、10月21日、アメリカ軍憲兵(MP)が長崎で撮影中のカメラマン1人を逮捕し、飛行機でGHQ(東京)に連行。

GHQは直ちに撮影中止を命じた。映画製作者たちはGHQに、「世界の歴史ではじめて核爆弾の洗礼を受けた国民として、後世にその記録を残しておきたいと願う日本人の気持ちを理解して欲しい。この記録は人類の将来のためのものだ」と訴えた。真に、勇気のある抗議だった。


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GHQは、この記録映画の作成は、陸軍戦略爆撃班の仕事だとしながらも、その価値を認めて、日本人の記録映画完成を許可した。

1946年2月、「原子爆弾の効果」と題する3355メートルの映画(総撮影フィルム1万5250メートルから編集)がGHQに提出され、直ちにワシントンに送られた。

総撮影フィルムのうち、日本人の手元に残ったフィルムは無いと思われていたが、日本の撮影班は、GHQの命令を無視して、完成した映画の半分以上を隠していた。秘密は占領終結まで守られた(松浦著『占領下の言論弾圧』参照)。

「原子爆弾の効果」は、1967(昭和42)年9月3日、日本国民の要求によって日本に返還された。だが、日本政府(文部省)は、この映画は原爆の被害に遭った人たちのプライバシーを侵害し、余りにも残酷な場面がある等の理由を挙げて、映画の極く一部しか公開しなかった。