『チャタレー夫人の恋人』



日本の警察当局は、同年6月26日、これまたベスト・セラーだったD・H・ローレンスの『チャタレー夫人の恋人』(1928年出版)を発売禁止とした。GHQは日本警察の措置を認めた。

『チャタレー夫人の恋人』は、アメリカでも発売禁止となっていたからだ。

15万部売れた『チャタレー夫人の恋人』は発売禁止だけではなく、「猥褻」であるとして、訳者伊藤整と、日本の出版社(小山書店)社長小山久二郎の2人は検察庁から起訴され、最高裁へ持ち込まれ、占領が終わってから5年後の1957(昭和32)年に判決が出た。

両者とも有罪。『チャタレー夫人の恋人』は「猥褻」。

私は大学生の時、この本を読んだが、こじつけても「淫らで、汚い」とは思わなかった。

ちなみに、1950年度のベスト・セラー1位は、谷崎潤一郎の『細雪』(中央公論社)であった。


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チャタレー裁判時の伊藤整(左)と小山久二郎(右)

検閲の徹底



映画も当然、マッカーサーの検閲の対象となった。1945年10月16日、占領が始まって1カ月後、「映画産業に対する日本政府の統制撤廃」指令を出し、「国家主義的、軍国主義的、封建的」という理由から236本の映画を上映禁止にした。その中には、日本人の大好きな「サムライ映画」も多数含まれていた(占領下の日本映画検閲については、平野共余子『天皇と接吻』〔草思社、1998年〕が抜群の研究書である)。

GHQの検閲は、切手や紙幣のデザインにまで及んでいる。

「事前検閲」は、1948年7月5日に中止となった。ワシントンからの提案だ。

同年6月8日、マッカーサーは、「米国の対日政策に関する提案」と題する国務省から国家安全保障会議(NSC)に提出された極秘文書の写しを陸軍省から受け取っていた。

国務省は、「文学作品の検閲および報道の事前検閲は中止すべきである。しかし最高司令官が事後検閲による監視や郵便物の検査を行なうことはこの中に含まれない」と事前検閲の中止を促した。


事後検閲



GHQは左翼雑誌を除いて、事後検閲に切り替え、1949年末から占領の終結(1952年春)にかけ、徐々に事後検閲も緩和した。

「事前」から「事後」検閲へ変わって、報道がもっと自由に行なえると思った編集者や新聞記者は、「事後」はとても扱い難い、という意外な現実に突き当たる。

事後検閲になると、GHQを通過するかどうかは発刊するまで分からない。即時発刊停止、または没収処分になるかもしれない。発刊停止に遭うと、金銭的損失は莫大で、それがマスコミを抑えるのにはとても有効であった。

事後検閲下では、編集者たちは、必要以上に用心し、絶対安全だと思われる記事だけを掲載した。

さらに、極度の紙不足の折り、GHQは新聞用紙の割当てを思想統制のため、効果的に使った。