「悪い報道」


マッカーサーのマスコミに対する異常なほどの神経過敏さは、日本のジャーナリストに対してだけではなかった。在日外国特派員に対しても厳しい監視を続け、しばしば「好ましくない」ジャーナリストを追放処分にした。

占領日本を鋭く分析した『ニッポン日記』(1948年)を書いた『シカゴ・サン』紙の特派員マーク・ゲインに関するエピソードは、「悪い報道」に対するマッカーサーの「容赦なし」を示す格好の例といえる。

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ちなみに、『ニッポン日記』は、占領中、出版禁止であった。サンフランシスコ平和条約が調印された直後、1951(昭和26)年に翻訳出版された。ベストセラーとなる。

ゲインは、1945年12月5日、厚木に上陸した。

ことの発端は、有力紙の『ワシントン・ポスト』が、ゲインの『シカゴ・サン』紙の農地改革についての記事を転用掲載したことからだった。1946年6月4日付の東京発で、ゲインは「GHQの高官たちの間では、土地所有者から小作人たちへの土地の分配は"共産主義"の臭いがすると見るものが多い」と書いた。


共産分子ゲイン



バーンズ国務長官は、極東委員会(ワシントンの旧日本大使館が事務所)に追及され、6月8日、東京のアチソン政治顧問にこの記事の内容について真偽の調査を求めた。

アチソンは直ちにバーンズ宛に返信電報を送り、

「この記事は全くデタラメです。......この記事の筆者、マーク・ゲインは信頼のできない記者で、占領政策に対して悪意に満ち、かつ破壊的な記事を書き続けています。ここ東京で彼は、モスクワの指令を受けた共産主義的傾向の持ち主との疑いを持たれています」

と個人攻撃を始めた。



吊し上げ



ゲインは2度GHQに呼ばれ、宣誓の上で訊問を受けた。ゲインはこの「犯罪人扱い」について本社に報告。『シカゴ・サン』紙は直ちに陸軍省に抗議し、陸軍省は10月9日、マッカーサーに説明を求めた。

マッカーサーは、同22日、陸軍省に「安全保障上の明白な規則違反について調査するため、ゲインを訊問した」と返答した。さらに、

「ゲインはこれまでも規則違反の常習者だった。彼の経歴をみると、彼の政治思想も危険である。GHQの報道担当官は陸軍省にゲインをこの地域から追放するように提案したことがある。彼は疑いもなく、占領軍に対して偏見を持っており、今回の一件は"報道の自由"の問題とは何ら関わりはない。彼の記事は、占領軍の権威に対しては破壊的な影響をもたらしている」。