松本烝治



2日後、幣原内閣はマッカーサー指令に従って、国務相松本烝治博士を「憲法問題調査委員会」の委員長に任命した。

松本は、東京帝大卒。同大学の助教授をした後、満洲鉄道の副社長になる。その後、関西大学長、中央大学、法政大学の教授も務める。破産法の権威で、日銀参与にもなった。田中耕太郎(文部大臣、第2代最高裁判所長官)は、松本の娘婿。

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著名な憲法学者、美濃部達吉(東京帝大教授で貴族院議員を歴任)は、明治憲法を改正しなくても日本の民主主義的改革は可能であると主張し、松本を支援した(達吉は、元東京都知事の亮吉の父)。

憲法改正に携わる委員会が同じ日に2組できたため、それぞれの長、近衛文麿と松本烝治は犬猿の仲となる。


東亜新秩序


近衛は、1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件の時、日本が中国の泥沼にはまりこんだ時の首相だ。「東亜新秩序」を唱え、大東亜戦争への道を開いた中心的人物だとアメリカは認識していた。

彼が新憲法の起草者に任命されたことは、日本ばかりでなく、アメリカでも猛烈な非難の声が上がった。

1945年10月23日、アチソンはマッカーサーに、「近衛公に対し日本国民から批判が上がっているが、現在のところ、何も変える理由はないと思います」と楽観的な報告をする。


近衛の悪足掻き


また、同日、アチソンはマッカーサーに報告する。

「近衛公の秘書から聞いたことですが、まもなく近衛公はマッカーサー元帥にお会いし、アメリカから著名な憲法学者を一人招聘し、日本憲法改革の手助けをしてくれるようにお願いするつもりだ、ということです。私は、これはとても望ましいことだと思います。今、日本人が改正している憲法案が、我々の政策と合っているかどうかを知るためにも、この憲法学者招聘は、良い考えだと思います」。

これはマッカーサーとアチソンが、近衛の憲法改正の任務を確認していたことを示す。

マッカーサーは、自分の「憲法案」を既に頭の中に持っていたので、アメリカから誰も招く必要はないと思っていた。

実際、誰も招かれなかった。