アメリカの失策



マッカーサーとアチソンは、日本のマスコミの批判を無視したが、アメリカ本土の新聞論評については敏感になっていた。

11月2日、バーンズ国務長官はアチソンに『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の10月31日付社説を送りつけた。

「極東で最もバカげたアメリカの失策は、近衛文麿公を新憲法起草者に選んだことである。まさに、少年院の院長に殺し屋を選んだようなものだ。日本の民主憲法を起草する者として、アメリカのお墨付きで、彼を選んだのは愚の骨頂である」

アチソンは11月5日、トルーマン大統領に書簡を送り、自分は「愚の骨頂」にかかわっておりません、と逃げを打つ。

「近衛公の活動には奇妙なものがあります。10月4日、彼は招待もされていないのにマッカーサー元帥を訪問しました。私も同席しました。元帥は政府の行政機構を改革すべきであると言いましたが、近衛の通訳は咄嗟に正確な訳が思い浮かばず、脳裏をよぎった言葉『憲法は改正すべきである』と口にしてしまいました(通訳はこの件についてのちに私に証言しています)」


奥村勝蔵


この通訳は奥村勝蔵。天皇とマッカーサーの歴史的な初対面の時の通訳である。

1941年12月7日(ワシントン時間)、日本大使館の一等書記官でありながら、東京からの最後通牒を翻訳し遅れ、戦中、戦後の日本に計り知れない悪評を齎したのが、この奥村。

近衛とマッカーサー・アチソン会談を奥村が通訳し、記録した。外務省資料の『近衛国務相、「マックアーサー」元帥会談録』である(NHK「日本の戦後」取材記、上『日本分割』 学習研究社、1978年参照)。



アチソンの弁明


アチソンはトルーマンに弁明を続けて、

「近衛は3日後、私のところに来て憲法改正に関し、私の"助言"を求めました。私は、彼と彼の同伴者たちに、一般論の形で明治憲法の中で悪いと思う点を伝えました。その後、彼は天皇から憲法改正に着手するように任命されたのです」。

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だがアチソンは、近衛に既に暗黙の了解を与えていたので、次のような弁解となる。

「この任命は、将来問題を起こすかもしれませんが、日本政府を利用して、我々の目的を達成する限り、また、その目的に向かって彼等が努力しているのを許す限り、この重大時期に近衛の邪魔をするのは賢明とは思われません。彼は天皇の信頼を得ており、彼自身、封建領主である反動派の重鎮です。彼はまだ、逮捕されていません。もちろん、上手く立ち回り、生き逃れようとしております。彼を重要な任務に用いた後、彼の背後に一矢を打ち込むというような道徳的問題には、私自身関わりたくないのです」