近衛の死


11月22日、近衛は草案を完成し、天皇に提出した。

1889年帝国憲法の最初の十三条は手つかずに残っていた。天皇大権は変更なし。

「近衛、役に立たず」とマッカーサーは決断した。荒療治が必要となった。アチソンの言うように、「即刻」に。

2週間後、12月6日、マッカーサーは近衛を286人の戦犯容疑者の1人に指名し、12月16日正午までに巣鴨刑務所に出頭するよう命じた。

16日早朝5時過ぎ、近衛は杉並の自宅で青酸カリで服毒自殺した。

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近衛の遺体を検死するMP憲兵


千代子夫人が6時過ぎに発見し、医師が呼ばれた7時20分にはまだぬくもりがあった。知らせを受けたアメリカのMP憲兵たちは、近衛家に土足で這入り込み、日本人の弔問客は誰一人家に入れなかった。


「廃徳亡国の感」


日本国民は衝撃を受け、悲しんだが、翌日の『朝日新聞』は社説で、近衛の屍に痛烈な言葉を浴びせた。

「大戦の前提となった支那事変は近衛内閣の時代に発生したのである」「近衛公その人の性格が、自ら戦争を好まない事は、十分諒解出来るが、その性格の弱さが、ずるずる戦争激発を容易ならしめたことは事実である」「近衛公が政治的罪悪を犯し、戦争責任者たりしことは一点疑いを容れない」

「近衛公自身は、戦争犯罪を自覚せず、......」「降伏終戦以来、戦争中上層指導の地位にありしものの、一人の進んで男らしく責任を背負って立つものがない」

「廃徳亡国の感、いよいよ深きを覚える」(原文は旧かな)


近衛の遺書


近衛は、遺書を残している。

「僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。これに対して深く責任を感じているが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷において、裁判を受けることは堪え難いことである。殊に僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした。そして、この解決の唯一の途は、米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽したのである。その米国から今、犯罪人として指名を受けることは誠に残念に思う」

「戦争に伴う昻奮と激情と、勝てる者の行き過ぎた増長と、敗れたる者の過度の卑屈と、故意の中傷と、誤解に基づく流言蜚語と、これら一切の所謂、世論なるものも、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。その時初めて、神の法廷において正義の判決が下されよう」

誰が近衛文麿を追いつめたのか。

外相だった吉田茂は、「何もわからない」と言う。

マッカーサーは、分厚い『回顧録』(1964年)で新憲法について長々と述べているが、近衛については一言もいわない。

近衛は、マッカーサーの期待に沿う憲法を書くのに失敗したが故、死に追いこまれた、と考えるのが自然である。