田中の横顔


田中文相が教育勅語を必死に守ろうとしたのは、別の理由があったのかもしれない。

彼は憲法問題調査委員会の委員長(閣議任命)だった松本烝治の娘と結婚していた。

1946年の初め、松本は天皇大権と日本軍隊を明記した憲法草案を書いた。

当時、外務大臣だった吉田は、松本草案を称賛していたのだが、「軍隊」と「天皇大権」は、マッカーサー憲法で抹殺された。

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保守派の大博打


「憲法戦線」で敗れた保守派は、天皇大権を死守するため、教育の場を最後の戦場に選んだ。田中文相は、この大博打の重荷を一身に背負っていたのだ。

田中の運命に同情的な人もいる。元文部省高官二人がCIEに出した秘密の「付け文」には、

「田中は学者で優れた教授だったが、政治家として才能はなかった。彼の義父である百万長者・松本烝治の力で突然〝ライムライト〟を浴びる舞台に押し出されたのだ」。


死刑執行決議


田中文相が教育勅語を必死に守ろうとしたことで、GHQが教育勅語を葬り去る「死刑宣告」を齎したことは、アメリカと日本の「認識」の落差を克明に表わすものであった。

日本が「守りたいもの」は、アメリカが「殺したいもの」であった。

その「死」を確実にするため、GHQの強力な民政局が介入し、衆議院、参議院に圧力をかけ、1948(昭和23)年6月19日、教育勅語を正式に葬り去る決議をそれぞれ別個に出させた。