GHQの要求


文部省は、2日後、その追放計画の初案を提出した。

CIEは、この日本案は全く役に立たないと拒否した。

前田文相は11月17日、ダイク准将、ヘンダーソン中佐、ホール中尉との会談に呼び付けられ、GHQの要求を突き付けられた。

⑴ 検査・追放計画ができしだい、東京近郊の県で試す。

⑵ より多くの委員会が、各村落、郡、県で必要である。

⑶ 村落委員会は、全教師についての審査報告を作成せねばならない。

⑷ 「町委員会」は、罷免する権利はない。その勧告のみを行なう。郡委員会に罷免する権利があり、県委員会はその罷免を再審査をし、全国委員会は上告裁判所の役割を果たす。

⑸ 大学と専門学校は、独自の委員会を作り、その報告を全国委員会が検討する。

⑹ 父母には子弟たちが最高の教育を受けていると納得できるように、この資格審査の全過程を公開せねばならない。罷免された教師たちについても公開されねばならない。他の望ましからざる教師たちが自発的に辞職するのを促すためである。

⑺ この計画は、単にGHQの政策を言い換えたものではなく、はっきりした基準を伴わねばならない。


教職員・審査綱領


2週間後、11月30日、文部省は改訂案をホール中尉に提出した。

また、拒否された。12月末まで、文部省はホール中尉と会議を重ね、GHQが満足するような案を作ろうとしたが、容易なことではなかった。

翌1946年5月7日、やっとホールが許可を出した。それは同年1月3日、マッカーサーが戦犯について出した声明と酷似していた。

文部省は、まず「軍国主義、超国家主義、専制主義、全体主義を煽った人物」と烙印を押された「罪悪人」を追放する。

次に、占領政策に反対した人物を追放する。占領政策の批判禁止は、マスコミの事前検閲と同時進行である。

文部省は、1931年の満洲事変まで溯り、作品、文筆、講義を通じて日本帝国政府の政策を支えた者たちも追放した。

「満洲事変以後」と明記されたのは、アメリカ政府がアジア・太平洋戦争の発端は、1941年の真珠湾攻撃ではなく、その十年前であると考えていたからだ。


不適合者の炙り出し


第審査が始まる前に、11万5788人の教師、教育職員が辞職した。

一回の審査は、1947年4月1日、新学期開始前に完了したが、審査作業は続けられる。1948年の「教育委員会法」の立法とともに、教育委員の全候補者が審査された。

文部省からGHQへの報告では、1949(昭和24)年4月末までに、94万2459人が審査され、3151人が不適格と宣言された。

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100万人に近い「羊」から3151人の「山羊」を探し出した文部省のGHQへの諂いとも見える粘り強さ、またGHQの病的とも思える執拗さは、驚嘆に値するべきものだろうか。