妥協なき検閲



小学校から師範学校を通し、当時使用されていた教科書は425冊。

CIE局内メモによれば、「155冊の危険な教科書は一頁毎に検査され、削除される文章には印がつけられ、記録された」。

教師たちも「帝国の栄光」を削除した。


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東京文理科大学・東京高等師範学校の様子


CIEによると、「このような削除は墨で塗り潰すか、切り取るか、ページを重ねて糊付けしてしまうといったやり方で行なわれた」。

鋏と墨が使われすぎたため、教科書は使いものにならず、印刷し直しも、CIEによれば、「現実的ではない」。

GHQは、教科書の削除処理では寛容さを見せたが、新聞、雑誌、ラジオ放送には検閲したという跡が残るのも許さなかった。

GHQ検閲官によると、教科書に対し寛容さが許されたのは、「もし厳しく実施したら、学校には全く教科書が無くなってしまうからである」。


間に合わせ教科書


検閲で教科書はなくなってしまった。

改定教科書が出るまでの「間に合わせ教科書」の出版は最初から大混乱だ。

印刷用紙の割当ては必要量の25パーセントで、さらに悪いことに、割当ての40パーセント(即ち、必要量の10パーセント)しか、1946年〜47年度に送られてこなかった。

前田文相は、1945年12月、衆議院で「学生は教科書なしで国史を学ばなければならない」と言明した。


紙不足


日本政府は、新聞印刷用に予定していた貴重な紙を教科書用に再割当てせざるをえなかった。

CIEも「新聞社からこういう援助を受けなかったら、1947年〜48年度の教科書を用意できなかったろう」と認めている。

CIE局内でも、内部メモを書く時には、スクラップ用の紙片を使い、紙不足は歴然としていた。

教科書不足を補うため、文部省は、巡回映画、スライド、ラジオを積極的に活用するよう奨励し、例えば、NHKの「教育アワー」は、1945年10月22日、マッカーサーの教育指令が出た日から放送が始まった。

4日後、ある評論家の教科書についての話が「不適当だった」ので、放送中断された。CIEは、11月12日、事前に講座内容を検閲し、放送再開の許可を出した。