使節団創設の原案


国務省は、1946年2月18日の新聞発表で、マッカーサーが教育使節団を要請したと言った。

だが、教育使節団派遣の提案は、既に四カ月前の1945年10月16日、在日駐留アメリカ兵A・B・チャプマンが、友人のジョン・L・マクラレン上院議員(アーカンソー州選出)宛に送った私信に述べられてある。同上院議員は当時、上院海軍委員会委員であった。

チャプマンは、

「日本では実に多くの教職者が教育制度と生活様式の改革を熱望している。彼等は、日本の教育制度には思想の自由、自主性、個人の選択が完全に欠けている、と言いながらも、帝国政府を恐れる余り、自ら変革に手を出さない。我々が去った後、日本政府に生殺与奪の権を握られるのが怖いと言っている」

「日本の教育制度こそ過去四年間、太平洋地域で悲惨と流血を引き起こした諸悪の根源であり、将来これらの悪を育む弾薬庫となることは疑いを容れない」


使節団派遣の重要性


「アメリカの大学、高校の教職者たちと上下両院議員からなる委員会を訪日させ、日本の教師たちおよび一般国民と話し合いをさせるべきである」

「この委員会は、日本の教育改革に必要な対策などを調査し、議会と大統領に行動をとるよう勧告すべきである。同委員会は即刻、設置されなければならない。なぜなら、日本国民は占領軍と日本旧政権とが合体した現状にすぐ慣れ切ってしまうだろうし、そうなれば改革は一層困難となり、効果もますます期待できなくなるからだ」

と、鋭く日本の現状を読みとっていた。

マクラレン上院議員は、10月31日、チャプマンの手紙をバーンズ国務長官に送り、「この問題について、何等かの手を打たなければならない」と勧告している。チャプマンとマクラレン議員の手紙は、国務省の経済保障統制局、文化協力局、日本問題局に回覧された。

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マクラレン上院議員


東京では、マッカーサーが、対日教育使節団の派遣をアメリカ政府に要請する準備を進めていた。