高級官僚の護身術


また、日本政府は、帝国大学の地位を変えるのには熱心ではなかったのである。高級官僚は、もともと旧帝国大学の卒業生であり、いかなる変革も自分たちの権威の減少に繋がると恐れ、その恐れを「学術水準の低下になる」という言葉で表現した。

戦前の帝国政府が、余りにも帝国大学を統制していたので、GHQは大学には手を出さず、そのままにしておくことが民主的であると考えたことも改革を遅らせた。

日本帝国のあらゆる機関が変革されている時に、旧帝国大学は、その戦前の特権と威信とを保持し続けた。皮肉なことに、民主主義と学問の自由を熱烈に説いたのは、これら教育封建制度の領主、旧帝国大学であった。


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京都帝国大学


因みに、1947年10月1日、GHQは「帝国大学」という名称を使用禁止、廃止にした。



個性なき日本人


大学の急増は、戦後初代の文部大臣前田多門の癇に障った。

1956年、英文雑誌で高等教育機関の急増を、「問題解決の見通しもつかぬ新大学の大拡散である」と嘲り、「このお粗末にして、肥大した制度には弊害が内在しており、治療の施しようがない」と断言した。

この遺憾な現状の根源は、日本国民が「教育の機会均等の原則を誤解しているからであり、また、表面的に、平等と画一性を装う制度なら何であろうと従う個性のない日本国民の性格にある」という。

教育の機会均等の「正しい解釈」というのは、帝国大学の地位と独占をさらに増強し、引き続き高等教育から女性を締め出しておくことでもあったのか。

日本国民には個性が欠けており、平等を理解できないという前田の主張は、国民を軽視した尊大さを克明に表わした。

前田が『国体の本義』と『臣民の道』を聖典と崇めながら懐かしがった旧体制は、「個性」を無政府主義と混同し、追い詰め、狩り出し、そして殺した。