物見遊山の使節団


使節団は二週間、この小冊子を読んだり、CIEスタッフによる講義を聴いたり、風光明媚な京都と奈良の見物に出かけ、時折「日本側教育家の委員会」と話し合った。

三週目、教育使節団員の三名は、「報告書」の執筆で過ごした。

教育使節団の物見遊山の態度は、CIEが文部省に宛てた「アメリカ教育使節団の日本滞在日程試案」という覚書にも出ている。

「公式の会合は午前中だけ。午後は視察にあてるか、委員会の会合。土曜日と日曜日は旅行日。日本側は週三回、夜の娯楽を用意すること。例えば、オペラ、音楽会、演劇、展覧会など(ただし、これは月曜日から金曜日までの間で)」


遠足のお代金


ストッダード団長は、「全団員を代表して、このように心身両面にわたり配慮をして頂いたことに深い感謝の意を表する」とニュージェント局長に謝意を伝えた。

日本政府が、1946年3月、教育使節団の滞日に使った経費は16万5000円。その内訳は、夜の娯楽に5万円、日本国内旅行に5万300円、残りの6万4700円は日本側随員の費用とか筆記用具類などに使われた。

16万5000円には教育使節団員の宿泊費と食事代は含まれていない。


文部省・最後の切り札


教育使節団が来日した時、前田多門は既に文部大臣という公職から追放されていた。

前田は「最後の切り札をこんな時節に出すのは勿体ないが......」と言いながらも、思想家・芸術家として著名な友人、安倍能成に懇請して文部大臣になってもらった。



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安倍能成


安倍は、3月8日、教育使節団歓迎の挨拶で

「戦勝国としての位置がアメリカ的あるいは西洋的特殊性を簡単に日本に強制するに至らざらんことを期待するのは決して不遜な願いではないと信じます」

と勇気ある要請をした。

日本が征服者として相手の国民性を無視して

「朝鮮や支那に臨んだことが、日本の失敗であった」「戦勝国としてアメリカは無用に驕傲ならず......アメリカ的見地を以て簡単に日本に臨むことのないように願います」

と言った。