柔道・書道の復活


ニュージェントの指示は、教育と文化の密接な関係について、彼の理解が深まっていることを示すものだ。

事実、この2カ月後、彼はルーミスに、「できるだけ早く、カリキュラムの責任は全て日本側に委譲する」「指導は減らしてゆく」と語っている。

1950年9月13日、GHQ・CIEは、「軍国主義的」として禁止していた柔道も、学校で教えてもよいと許可を出した。

この時、激烈な戦争がすぐ隣の朝鮮半島で闘われており、マッカーサーも自分が書いた第9条を無視して、警察予備隊といわれた「自衛隊」を作っていた。


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柔道で、日本の若い世代を強くしたかったのか。それとも、GHQ・CIEは、「日本の文化」を大切にしなければならないと心から思ったのだろうか。

書道・毛筆習字は、1951年夏に復活し、教科の中に組み込まれた。


日本殺し専門家


ローマ字について、もう一言。

CIEは「ローマ字は、どう見ても、日本の書き言葉の補助的手段にしかならない」と判断し、ローマ字化への希望を放棄した。

CIEの困惑ぶりは、ニュージェント局長がルーミス教育部長に、

「CIEで、1946年に一緒に働いていた者の中には、日本のカリキュラムで、日本的なものには徹底的に鉈を振るう殺し屋がいたことを覚えているよ。一夜で日本語を変えようとした男を覚えているかい?」

と打ち明けた時に、さらに顕著になった。

「ある男」とは勿論、ロバート・キング・ホール。その頃、彼はコロンビア大学教育学部の助教授で、比較教育学を教えていた。それも、日本教育の専門家として。


敵性言語・大ブーム


評判の悪いローマ字に反して、英語の人気は爆発的であった。日本国民は、英語を敵性語として戦時中、学ぶことを禁じられていたのだ。

英語の人気が高かった一例を挙げるならば、私の兄や姉もよく聴いていた、1946(昭和21)年2月1日から放送されたNHKの週日午後6時から15分間の番組「カムカム英会話」である。

番組の講師平川唯一は、高い評価を受けていた。しかし、5年後、再契約をめぐり話し合いがつかず、1951年2月9日で、番組から降りた。

平川は17歳で渡米し、小学校から始め、1931(昭和6)年、シアトルのワシントン大学演劇学科(School of Drama)を卒業し、その翌年NHKに入った。