芦田社会党の画策


社会党の片山内閣で副総理・外相を務めた芦田均首相は、社会主義から保守主義に転向した森戸文相とともに全国遊説した。その時、第8軍から圧力をかけられて、選挙を延期したほうがよいのではないかと考え始めた。

芦田首相は、緊急閣議を招集し、そこで森戸文相がGHQに延期を要請することが決定された。

芦田は、東京帝大卒業後、外務省に入り、ロシア、フランス、トルコ、ベルギーに駐在した。トルコに駐在中、論文を書き、法学博士の学位を受けた。

昭和7年衆議院議員となり、当選11回。昭和8年、ジャパン・タイムズ社長。戦前、軍閥に抵抗した。片山内閣の崩壊後、首相になるが、昭電疑獄で8カ月後に総辞職する。


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芦田均

秘密会合


1948年9月14日、森戸文相はCIE教育部でオアと会った。

オアはニュージェントに報告する。「森戸文相は、共産主義者やボス連中の進出の心配を述べ、芦田首相も立候補者たちを〝人格は高潔ではなく識見も豊かでない〟と懸念している」。

オア「どうして、人格が高潔でない者が選挙について関心が強く、人格が高潔な者が選挙に関心が無いのか、何とも理解し難い」

森戸「芦田総理はホイットニー将軍に、あるいはマッカーサー元帥でもよろしいが、この問題を話し合うため、お会いしたいといっている」

オア「最高司令官は、選挙の延期は考えておられない」

日本国民が教育委員会について殆ど理解していないことを知って、マッカーサーとGHQは(外交局のフィンによれば)、「一般大衆の関心を刺激するために奮闘努力をした」。

マスコミは教育委員会選挙の特集を組むように指示された。



教育委員会選挙結果


選挙は予定通り、1948年10月5日に実施された。

マッカーサー・GHQの努力は惨めな結果に終わった。

投票率は、全国平均56・7パーセント。最高は島根県の78パーセント。最低は、マッカーサーのお膝元、東京の29パーセント。農村で高く、都市で低かった。

教職員が、当選総数571人中、101人。

フィンが上司のシーボルド政治顧問(外交局長)に報告しているように、アメリカ側の失望は明白である。

「教育委員たちは、無能であり、教育問題についても完全に無縁な者たちである。日本で効果のある教育委員会制度が確立するには、一般大衆の教育と経験が必要でしょう」。



私利私欲の中のPTA


一般大衆の経験と参加とを増すために、GHQの肝煎りで、父母と教師の会(PTA)が全国に作られた。

しかし、PTAもアメリカ側をがっかりさせた。フィンは、「PTAの組織は、私的な利益を掴もうとする地域のボスとか、金持ちたちの餌食になっている」と扱き下ろしている。