能無し官僚


1890(明治23)年の「教育勅語」を擁護しすぎて、勅語を死に追い込んだ張本人「田中耕太郎元文相はこの思想統制の熱烈な信奉者である」と、森戸文相はオアに告げた。この頃、田中は参議院文教委員長として、教育委員会法案を審議していた。

文部省は、共産主義に対するGHQの敵意を煽ろうとしたが、GHQはその手に乗るほど単純ではなかった。

オアがニュージェントに報告しているように、「民政局(GS)は文部省を全く信用していない。この不信感は民政局の者たちとの会議の度にこの不信感が表面化する」。

そればかりではなく、強力な民政局は、「文部省がありとあらゆる権力の糸を手繰り寄せようとしているし、文部官僚は何とか地方分権化を遅らせ、権限を文部省の手に保留しようと企んでいる」と見ていた。


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文部省廃止案


文部省は、国民に、民主主義について指導してやらなければ、国民は理解できないと思っていたが、「指導された民主主義」の大先生であるマッカーサーは、文部省に自分を真似ることができるとは思っていなかった。

それ故、1948年3月27日、森戸文相が文部省を「教育・科学・文化省」に拡大する案を出してきた時、マッカーサーは「科学」と「文化」の領域は、文部省の手に余るのではないかと考え、民政局に審議せよと命じた。

民政局では、「教育」でさえも文部省は扱いきれないと見ていた。

民政局はオアに、「文部省を廃止してもよい」とか、「(教育関係のデータを集めるだけの)統計庁を作った方がよい」と話していた。文部省拡大案は完全に無視された。

森戸文相は辞任する直前、オアを訪問し、「民政局が文部省を廃止しようと考えていることに対し、強い懸念を抱いている」と言った。

教育委員選挙は、1952(昭和27)年に、もう一度行なわれた。

占領終了後、1956年教育委員会法は廃止され、教育委員を任命する権限を文部省に与える新法が制定された。