失われた国宝


7月2日、午前2時50分ごろ、京都の金閣寺から出火し、一時間後、美しい国宝が全焼し、灰になった。

同寺の徒弟、大谷大学支那語科一年生の林養賢(21歳)が「金閣寺と心中する覚悟で」と火をつけたが、怖くなって逃げた。

この死に損ないは、裏山で捕まった。

翌日、母親は、放火の責を負い、山陰線で列車から川へ飛び込み、自殺した。同年12月28日、京都地裁は、林養賢に懲役7年の判決を下した(『朝日新聞』では、養賢が「承賢」と誤報されている。『讀賣新聞』では正しく「養賢」となっている)。

昭和30年10月30日、刑期満了で京都刑務所を出たが、5カ月後の昭和31年3月7日、結核で死亡した。

昭和31年、三島由紀夫(31歳)は、不朽の名作『金閣寺』を出す。

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三島由紀夫



アメリカ軍の反撃


1950年7月3日、朝6時30分、アメリカ空軍爆撃機39機は、北朝鮮首都平壌に猛爆を加えた。さらに、20機の爆撃機が大型爆弾を800個以上投下した。

オーストラリア空軍戦闘機もアメリカ軍に加わった。イギリス艦隊も、戦闘に参加し、ニュージーランド軍艦2隻も参戦した。7月3日の夜、アメリカ陸軍が初めて北朝鮮軍と戦闘となった。



グロムイコ声明


北朝鮮が侵略を開始してから10日後の7月4日、グロムイコ・ソ連外務次官はタス通信を通じて、「戦争を始めたのはアメリカだ」と猛反撃に出た。

「アメリカは朝鮮人民に戦争を仕掛け、朝鮮ならびに中共中国に対して直接的な侵略を行なっている。アメリカは朝鮮を極東における軍事拠点にする目的で全朝鮮の支配を狙っている」。

同7月4日、ワシントンは、グロムイコ声明に反論し、「アメリカの軍事作戦は、ソ連がいかなる態度をとろうとも継続されるであろう」と断言した。