森戸の苦悩


片山内閣の外務大臣であった芦田均が、吉田茂と首相の座を争って勝ち、同年3月10日、首相になる。

芦田首相は、森戸に文部大臣として留任してもらう。「学園の自由」と「学園の政治化」の板挟みになっていた森戸文相の苦悩はまだ続く。

森戸は、1948年6月29日、オアを訪ね、「問題は学内の共産主義といかに闘うか、同時に学生たちの市民としての自由をいかに護るか、であります」と言い、「大学生のわずか20パーセントだけ」が学内ストに参加している、と付け加えた。



オアの沈黙


参議院議員の元文相田中耕太郎は、解決策として文部省が学生と教師の「思想統制」を再び行なうことを提唱したが、森戸はオアに「私はこれには反対だ」と言った。

オアは、森戸に何も指示しなかった。

翌日、森戸は閣議で「学生の政治活動は憲法で認められた権利であり、これを禁止することは地下活動の可能性も強め、学生が社会から一層離れてしまうことになる」と敢然と主張した。

森戸は、オアの沈黙の意味を読み違えた。



「放任」の行く末


GHQは、文部省の「放任」とも言える態度に強い不快感を露にし、共産主義者や左翼の存在が、日本の将来にとって有害であると公に発言し始めた。

例えば、教育委員の第一回選挙(1948年10月5日)の前、軍政部の教育係官が、方々の選挙運動の現場を訪れて、左翼候補を罵倒した。

この選挙の翌6日、文部省は、教職員と学生に政治的な発言や研究の自由は学内で尊重されるべきであるが、政治的中立と大学の秩序を守らなければならないと言った。

GHQは、文部省がもっとはっきりとした言葉で共産主義を非難することを期待していたが、森戸の文部省は躊躇していた。

この文部省の見解発表の翌7日、芦田均内閣は、大きな汚職事件「昭電疑獄」に巻き込まれ、わずか7カ月で総辞職した。


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芦田内閣