天野批判


マッカーサーに洗脳されていたマスコミは、天野の意図を国家主義の再生だと解釈して、嵐のような批判を浴びせた。

1951年11月12日、午後一時二〇分、天皇陛下が京都大学を訪問された時、京大自治会は声明文を校門前の大きな看板に書いた。

「願 神様だったあなたの手で我々の先輩は戦場で殺されました。もう絶対に神様になるのはやめて下さい。『わだつみの声』を叫ばせないで下さい」



わだつみ会


日本戦没学生記念会(わだつみ会)は、1950年4月22日に結成された。「わだつみ」は、漢字で「海神」「綿津見」と書く。「わたつみ」ともいう。『わだつみの声』とは、「海の神様の声」のことだ。

5000名の京大生が「平和を守れ」を合唱し、陛下の空車の回りに人垣を作った。服部峻治郎京大学長(61歳)の要請により、京都市警官隊が出動し、学生たちを退去させた。医学博士の服部が、京大学長になったばかりの時であった。



痛恨の極み


京都大学は天野文相の母校であり、1931(昭和6)年から教授でもあった。恥辱の痛みは天野の心を突き刺すようであったろう。天野は、「最後の責任は私にある」と言った。

同11月17日、京大は8名の学生を無期停学の処分にした。

これは、「京大事件」と名付けられ、衆院法務委員会でも大きく取り扱われた。また、最高検察までも関与して、法務府特審局と同じように、事件の背後関係を徹底的に調査した。「全学連」が浮かび上がってきた。

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京都大学