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From:岡崎 匡史
研究室より

犬養毅首相が暗殺された「五・一五事件」。

青年将校を駆り立てたものは何か?
「五・一五事件」の背景には、何があったのだろうか?

それは、大不況。

引き金をひいたのは、ニューヨーク。

1929(昭和4)年10月29日、「暗黒の木曜日」(Black Thursday)で始まった「世界恐慌」は、世界中の株式市場を大混乱に陥らした。

翌年の1930(昭和5)年、濱口雄幸(はまぐちおさち・1870〜1931)内閣は「金本位体制」を復活。金の激しい国外流出が起こり、景気がさらに悪化した。

「世界恐慌」の波は日本を襲う。
「昭和恐慌」が起こり、大不況に直面した。

豊作飢餓と身売り

日本の近代化に貢献した生糸産業だが、生糸価格は不況のあおりをうけて暴落。製紙工場の経営は悪化し、賃金不払いが社会問題化した。

生糸価格崩壊が引き起こした価格暴落は、農村地域に大打撃を与えた。国内市場の縮小と共に、農産物価格も連動して大暴落。

1930(昭和5)年の米作りは豊作なのに「飢餓」となる。とくに東北地方の農村における貧窮はすさまじい。娘の身売りや欠食児童は日常茶飯事であった。

小作争議は年々増加し、1930年代に頂点を達し、貧困と飢えのため大地主に対する反対争議は激しくなる。社会は混沌としていた。

そんな時代状況で起きたのが、チャップリンをも巻き込む「五・一五事件」だった。

減刑嘆願運動

「五・一五事件」の裁判が始まると、青年将校に同情する国民の声がよせられる。全国的な減刑嘆願運動が広がり、100万人もの署名が集まった。

「五・一五事件」は軍人だけが起こしたクーデターとは違う。「農民決死隊」が加わっていた。農村の貧困を訴えたのだ。参加した兵士もほとんどが農村出身者。だから、国民が共感を覚えたのである。

さて、このような状況で開かれた裁判の判決は、、、

国家主義思想家で農民出身の「愛郷塾」塾頭・橘孝三郎(たちばなこうざぶろう・1893〜1974)・・・無期懲役。

ここから裁判に異変がおきる。
軍法会議で海軍中尉の古賀清志(こがきよし・1908〜1997)と三上卓(みかみたく・1905〜1971)が反乱罪で死刑を求刑された。しかし、判決は禁固15年。

甘い判決だった。

農民の参加者と比較して軍人の刑の軽さが目立つ。
この軽い判決が、のちの「二・二六事件」を招くことになる。


ー岡崎匡史

PS. 以下の文献を参考にいたしました。
立花隆『天皇と東大―大日本帝国の生と死・上巻』(文藝春秋、2005年)
三和良一『概説日本経済史 近現代』(東京大学出版会、1993年)