缶詰工場の日本人


日本人はイクラおじさんと私だけ。早朝、彼に挨拶しても、頷くだけ。

彼の無言が「お前を嫌いではないが、モノを言いたくねんだ」と語っていた。

彼は、終戦直後、満州でソ連軍の捕虜になりシベリアに抑留され、悲惨な生き地獄を体験した人なのだと1ヵ月後の会話で分かった。


シベリアの記憶


このイクラ職人は、私の『國破れてマッカーサー』(中央公論新社)に登場する。

彼の話が壮絶であったので、ここに抜粋する。

「ソ連兵は戦車で日本人の女、子供たちを櫟き殺した直後、戦車の中から出てきた。それぞれ、手にペンチを持って。女、子供たちの死体から、また生きている者たちから、ペンチで金歯、銀歯を抜き取り、指輪を取る時は、指をペンチで切り千切るんだ。オレがどうしてシベリアで生き残ったかって?そいつぁ、話したくねえなあ......」

「オレたち日本人捕虜はシベリアの勾留所・バラックに連れてゆかれた。多くの日本人が着く前に死んだ。飢えと病気、衰弱で死んだ。オレたちの勾留所には500人ほどの捕虜がいた。近くの森林で木を切り出すのが仕事だった。食べ物が不足しているので、毎日、朝になると誰かが、死んでいた。冬になると、もっと死んだ。地がカチカチに凍り、死体を埋めることができないので、バラックの外に積んどくんだ。靴とか軍服は剥ぎ取り、オレたちが使う。凍った丸裸の死体がすぐに山積みになる」


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屍体の解体


「遅い春が来ると、死体を埋めなければならない。地もツルハシだと掘れるようになる。死体はまだ凍りついていたままなので、素手では動かせない。ツルハシで遺体を分けるんだ。ツルハシで戦友たちの遺体に傷つけることを誰もやりたくない」

「ソ連兵の看守たちもそれを十分解っており、遺体の処理をした者にはジャガイモを特別に与えると言った。2、3人の者が飢えの恐怖から逃げるため、ツルハシを使ったが、途端に吐いて、止めた。オレはこんなシベリアで死んで堪るかと思っていたので、志願した。ツルハシを水のように硬い死体に打ちつけると、ガチンガチンと金属的な音がする。できるだけ顔とか頭を避けているんだが......ツルハシで同じところを4、5回打ちつけると、凍った血が溶け、流れ始める。生きているのではないか!と思い、オレも吐いた。でも、続けたんだ。ジャガイモを食べて生き残った」

「500人中、生き残ったのは7、80人ぐらいだったかなあ。生き残って、恥ずかしいと思ったよ。でも生きていたかったんだ」


秘密報告書の中のシベリア


米陸軍省情報局は、1946年(昭和21)年8月付の秘密報告書に「日本人捕虜78万5000人がソ連に勾留されている」と書いている。

ソ連は、1950年4月末で日本人捕虜引き揚げは完了した、と発表した。この発表に怒ったのは、東京のマッカーサー本部(GHQ)である。

1950年5月10日午前10時に明治生命ビルで開かれた第113回目の「対日理事会」で、米代表は

「まだ37万4000名の行方が説明されていない。これらの人々は生存してソ連に勾留されているのか、あるいは長いシベリア拘禁中の屈辱的な状態の下に死亡したかのいずれかである」

とソ連を非難した。この追及を受けることを察していたソ連代表は、欠席していた。



西鋭夫著『日米魂力戦』

第3章「アラスカ半島でイクラ造り」−3