排日政策


今現在、日本人旅行者や日系企業はアメリカで大歓迎をされ、人種差別を肌で感じることはないが、1861年(明治維新の7年前)から始まったハワイと米国本土への日本人移民たちは、凄まじい差別にさらされた。移民総数は太平洋戦争が勃発する前の年(1940年)までに、27万5000人強である。日系移民たちはどれほど醜い差別を受けたのか。

(1)1913年、カリフォルニア州法で「市民権」を持っていない者(日本とアジアからの移民)は、土地や家屋の所有権を持てないと決めた。

(2)1920年、カリフォルニア州で「市民権を取れない者」(日本人移民)は農地を借りることもできないという法律が制定される。この法律は瞬く間に西海岸全州と中部(計12州)にも広がっていった。

(3)1922年、米国最高裁判所は「アジアからの移民には市民権を与えないとする州法律は米国憲法に違反しない」と判断を下した。アジア人に対する差別の深さをまざまざと見せつけたのである。


日本政府の動向


日本国民はこの人種差別に激怒し、軍部では正義のために戦争を始めても良いのではないかという意見まで出始めた。日米間の緊迫感は張りつめたまま、日本の目は当時欧米の植民地であったアジア本土及び東南アジアに向けられた。日本帝国のアジア進出が、欧米列強国の侵略より300年以上遅れて始まったのだ。

1931年の満州事変で、日本は広大な領土を植民地にした。欧米は自分たちの悪行(数百年にわたる植民地獲得)には目をつぶり、日本の侵略を激しく非難した。1933(昭和8)年2月24日、国際連盟も日本の満州占領は国際法違反であると42ヵ国対1ヵ国(日本)で決議し、「満州は中国の土地」であるので速やかに去れと迫った。

日本代表の松岡洋右は、そのような勧告を日本(常任理事国)が受け入れることは不可能であると発言し、憤然として退場した。3月27日、日本は連盟から脱退した。1933年4月に帰国した松岡は、東京駅で凱旋将軍のような大歓迎を受けた。

日本国民が欧米諸国に対して持っていた激しい不満が爆発し、松岡の退場を、誇り高き日本人の心意気と見たのであろう。この年10月、ナチス・ドイツも国際連盟から脱退した。


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松岡洋右


松岡洋右


松岡は13歳(1893年)で米・西海岸のオレゴン州に渡り、人種差別に耐えながら、オレゴン州立大学を優秀な成績で卒業した。1901年に帰国し、外交官になった。

松岡は、強い愛着を持っていたアメリカを仮想敵国と位置付けた「日独伊三国同盟」(1940年9月27日)をナチス・ドイツとファシスト・イタリアと結び、日本を第2次世界大戦という悪夢の道へ導くことになる。松岡は、三国同盟は「僕の一生の不覚」と後悔したが、マッカーサーに「A級戦犯」と名指しされ、東京裁判にかけられ、裁判中、獄死した。

西鋭夫著『日米魂力戦』

第3章「アラスカ半島でイクラ造り」−9