戦火の中の交渉準備


(3)朝鮮半島で市民と兵士の区別もない激戦が続く間、日米和平交渉が始まった。1951年2月7日、吉田茂首相は米政府の特使ジョン・フォスター・ダレスに手紙を送り、「日本は連合国と漁業問題につき話し合う用意があります」と伝えた。吉田首相は米政府の指図に忠実に従っている。

2ヵ月後、日本占領の独裁者マッカーサーは、朝鮮戦争の戦略に関してトルーマン大統領の命令に従わなかったため解任され、本国アメリカへ呼び戻された。マッカーサーの御用聞きだった吉田首相は動転し、「私がどれだけ衝撃を受けたか、どれだけ悲しんだか、あなたに告げる言葉もありません」と彼に手紙を書いた(『國破れてマッカーサー』参照)。

(4)1951年7月、米太平洋沿岸の労働組合代表は、米政府(国務省)と綿密に協議し、最良の漁業条件をまとめた。日本と交渉の用意ができた。


米国による鮭漁独占


(5)サンフランシスコで、敗戦国日本と戦勝国48ヵ国が平和条約に署名した。日本と世界が第2次世界大戦の悪夢を教訓とし、平和的な運命共同体を造る努力をしますという約束である。これで日本の「戦争責任・犯罪」の謝罪も終結した。ソ連(現ロシア)と中国は、平和条約会議への出席を拒否した。未だに、ロシアと日本の間には平和条約がない。

サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が敵軍占領から解放され、独立国家になるのは8ヵ月後。吉田首相が帰ってきた日本は、まだ米軍による占領下である。この最後の8ヵ月の占領期間中、アメリカは鮭独占を決定的にする。


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(6)サンフランシスコでの署名から40日後(1951年10月16日)、日本政府はアメリカとカナダの漁業関係者及び国務省(アメリカ)と外務省(カナダ)の高官たちを東京へ招待した。北太平洋の鮭につき話し合い交渉をするためだ。

鮭だけでなく、畳2枚ほどの大きさがある「大ヒョウ」(巨大なヒラメ)も貴重な資源であるので、アメリカに独占される。日本人が大好きなカニ、アラスカの「キング・カニ」は交渉の対象にはならなかった。当時、アメリカの漁師がこのカニを商業用に捕っていなかったからだ。


「鮭条約」


(7)子供騙しか、徹底的な侮辱か、信じられないことが占領末期に起こる。マッカーサーの後任、リッジウェイ最高司令官が日本に「特別独立」を与えた。占領下の日本がアメリカとカナダと「自由に、対等に討議・交渉ができるように」との考慮からである。

だが、特別独立は交渉期間の40日間だけ。間もなく「独立」することになっている日本が、後になって「北太平洋鮭条約は米軍に銃を突きつけられて同意させられた不平等条約である」と言わせないためである。

12月14日、東京で日本・アメリカ・カナダは「鮭条約」(正式の名は長く、「鮭」という言葉は入っていない)に署名した。同時に、日本の特別独立は占領軍に取り上げられた。


交渉なき決着


(8)1952年4月25日、マッカーサー・ラインが解かれる。3日後(4月28日)平和条約が発効し、占領が終わり、日本は独立国になった。

(9)平和条約の第9条には「日本は公海における漁業資源の確保のため、また自国の漁業活動を制限するため、連合国と速やかに協議に入る」と記してある。

日本が独立国になったのが4月28日だ。その日から「速やかに協議に入る」はずなのだが、協議はすでに5ヵ月前に終わっており、北太平洋での日本の鮭漁は禁止されていた。鮭条約には日本が公海で鮭を捕る権利を「自主的に破棄する」と書いてある。

(10)5月9日、独立国日本はアメリカとカナダ政府の高官と鮭漁の網元たちを東京に招き、すでに出来上がっていた「鮭条約」に署名した。


西鋭夫著『日米魂力戦』

第3章「アラスカ半島でイクラ造り」−12