blog58.jpgFrom:岡崎 匡史
埼玉の実家より

子どもの頃、海に憧れていた。なぜなら、私の出身は埼玉県。「海なし県」なのだ。

小学生の頃、夏休みに隣接している茨城県の大洗ビーチに家族で行くのが楽しみであった。しかし、関東近郊の海は、プランクトンの影響か海が濁っている。子ども心に私が求めていたのは、白い砂浜と透き通るような紺碧の海、、、

子どもの頃の憧れは、忙殺を極める日常に忘れ去れていく。助手として大学に勤務していたが、研究する時間もとれない。「生活費」を獲得するためと割り切ってはいたものの、「作業」の繰り返しのような仕事にうんざりとしていた。

勤務していた大学を辞めることになったとき、子どもの頃の思い出がふっと蘇ってきた。

「碧い海を見たい」

八重山諸島

沖縄に飛び立った。
成田空港から石垣島に向かい、小型船に乗船し、日本の最南端である波照間島(はてるまじま)に向かった。お酒が大好きな人にとって、プレミア価格がついている幻の泡盛「泡波」が格安で呑める。

波照間島には「ニシ浜」という絶景の浜辺がある。美しさを形容できないので「波照間ブルー」とも呼ばれる。浜辺で「泡波」を吞んでいれば、天国とはこういう景色をいうのだろうと思ってしまう。

波照間島から次ぎに向かった先は竹富島(たけとみじま)。

竹富島は伝統文化と自然文化を守るため、村民が自主的に定めた「竹富島憲章」(島の土地や環境を「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」「生かす」)を掲げている。しかし、リゾート開発が着々と進んでおり、反対運動が今でも続いている。

方言札

竹富島にある民族資料を展示している「喜宝院蒐集館」に立ち寄ったとき、目に留まったものがある。それは「方言札」だ。

「方言札」は学校教育で活用された。

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子どもたちは琉球語をしゃべると、罰として「方言札」を首から下げさせられる。方言を話している者を新たに見つけないと、「方言札」から逃れられぬことができない仕組みだった。

日本の標準語は、東京の山の手に住んでいる教養ある中産階級の話し言葉を基準にしたとされている。ところが、当時の「山の手」に住んでいた多くの者たちは、元薩長(薩摩藩・長州藩)の下級武士と吉原の遊女といわれている。

「田舎侍」と「ありんす」がしゃべっていた言葉が、標準語の起源なのか?

真相は、調べてみたがわからない。

明治維新と標準語

では、「標準語」の「標準」は誰が決めるのか?

それは、時の政治権力である。

近代化を推進する明治政府は、共通の「ことば」が必要であった。なぜなら、
日本という一つの国のなかで、言葉が異なると不便極まりない。日本人同士なのに、一歩その地域を出ると言葉が通じないこともあるのだ。

侍たちの根強い「藩意識」を取り払い、「日本」という意識を植え付けるには、言葉が一致していなければならない。

だから明治政府は廃藩置県を断行し、共通の「ことば」をしゃべらせることで連帯意識を生ませ、「日本人」という同族意識を創り上げようとした。

占領下日本でGHQが日本語の「ローマ字化」を試みたように、「ことば」は支配するための道具にもなる。

「ことば」一つで人を傷つけることもあれば、時の為政者によって「ことば」そのものも消滅しかねない。


ー岡崎 匡史
PS. 以下の文献を参考にしました。
相原夏津江『ソシュールのパラドックス』(エディット・パルク、2005年)
田中克彦『ことばと国家』(岩波書店、1981 年)
長志珠絵『近代日本と国語ナショナリズム』(吉川弘文館、1998 年)