帝国の戦争歴


議会制民主主義の模範と自負しているイギリスの「戦争歴」を調べてみた。

1800年から1999年までの200年間で、大英帝国が武力行使をした回数は、202回である。この中には1991年の湾岸戦争も入っている。過去200年間、イギリスが戦争をしていなかった年はない。2003年の第二次湾岸・イラク戦争にも、米軍と共に戦っている。203回目だ。

好戦的と言われているアメリカの戦争歴を見てみると、過去200年間で米軍が関わった戦争は、120回。この回数の半分は、国内でのアメリカ・インディアンとの戦争である。第二次湾岸・イラク戦争関連で、125回ぐらいだ。

中国の戦歴を見てみると、過去200年間で58回ある。1839年にイギリスに仕掛けられた第一次アヘン戦争から1989年の天安門虐殺事件まで勘定して、58回。

日本は、過去200年間で26回。1862年の生麦事件を発端にして、1863年に英国艦隊が薩摩藩・鹿児島を砲撃したのが最初の戦いで、徳川幕府と官軍の市民戦争・明治維新を加え、1945年の敗戦までを数えると26回だ。日本がいかに戦争をしていないかが一目瞭然である。

第二次湾岸・イラク戦争にイ―ジス艦(駆逐艦)を送り込んでいるので、27回目と勘定すべきか。


生麦事件


若い読者への説明。「生麦事件」は、幕末に勃発した外国人殺害の大事件である。1862年9月14日、横浜市郊外にある生麦村(横浜市鶴見区)で、鹿児島へ帰る薩摩藩国父・島津久光の大名行列の数十メートル前をイギリス人4名(男3名、女1名)が馬に乗ったまま「無礼」とは知らず横切った。「無礼者め」と怒った護衛武士が斬りつけ、1人を斬殺した。大英帝国は薩摩藩に犯人と賠償金を出せと要求するが、薩摩藩は拒否した。

徳川幕府が賠償金(44万ドル・10万ポンド)を立て替えて出した。幕府が陳謝状も出した。薩摩藩は、公然と英国に楯を突く。薩英戦争になる。1863年7月2日、英国戦艦7隻が鹿児島湾に入り、桜島に構えた藩士たちと砲撃戦となる。イギリス戦艦のアームストロング砲は薩摩藩の大砲よりも4倍の射程距離があり、大英帝国の力を攘夷(外国人を日本に入れるな)の薩摩に見せつけた。

だが、薩摩藩士は怯まない。小さな藩船で大きな英国戦艦に挑み、旗艦の艦長と副艦長を戦死させ、さらに11名の戦死者を出す打撃を与えた。薩摩の戦死者は5名。

92.jpg

生麦事件の様子



薩英関係の展開


薩摩藩士の戦いぶりに感銘を受けたイギリスは、一気に薩摩と親密になってゆく。薩摩藩は英国との提携が近代兵器を手に入れる手段と判断して、「生麦事件」を解決するための話し合いを英国に提案した。横浜で和議が成立した。

薩摩藩が、幕府が立て替えてすでに支払った賠償金10万ポンド(44万ドル)に追加して、さらに2万5000ポンド(11万ドル)を支払い、犯人を死刑に処すと約束した。薩摩藩はこの11万ドルも、また幕府から小判(金貨)で借りて、英国に手渡した。

だが、藩士を死刑にする薩摩藩ではない。英国は、1人が殺害された生麦事件で、55万ドルの賠償金を手に入れた。小判1枚が4ドルと換算されていたので、13万7500枚の小判である。小判1枚は11.25グラム。すなわち、1547キロの黄金の塊が日本から英国に渡った。

1904年の日露戦争の時、対馬沖で帝国ロシアの誇り・バルチック艦隊を壊滅的に撃沈する日本連合艦隊の総指揮者は、元薩摩藩士・東郷平八郎。薩英戦争が彼の初陣であった。



西鋭夫著『日米魂力戦』

第4章「国の意識」の違い -21