寮友の出陣


1964年の秋、紅葉に彩られたワシントン大学のキャンパスで、10名ほどの学生がカーキ色の軍服に身をまとい、カーキ色の軍帽をかぶり、編み上げの黒い軍靴を履き、本物の自動小銃を肩にかけ足並みをそろえ、行進をしていた。誇りに満ちた顔である。ボクの寮友たちではないか。啞然とした私の顔を横目で見て、彼らはニヤリと笑った。

私がビックリしたのは当然。

小学1年生の時から「軍隊・武器・鉄砲」は「悪」の象徴として洗脳されていた私は、敗戦国日本に「無防備=平和イデオロギー」を導入した米国で同年代の学生たちが意気揚々と(神聖な)キャンパスで軍行進をしている情景を目の前にして、大切にしていた理想が崩壊していくような混乱に陥った。

だが、理想の崩壊については、すでに経験があった。


安保闘争


私が大学1年生の時、1960(昭和35)年、日本で「市民革命」が起こるのではないかと思わせた「日米安全保障条約反対」の大規模なデモが巻き起こり、全学連と呼ばれた大学生たちは日夜機動隊と激突していた。

米軍が日本に駐留すれば、米ソ冷戦が朝鮮半島で火を噴く激戦(1950年朝鮮戦争)になったように、日本列島が敵国の先制攻撃を受け悲惨な戦場になるという恐れが、生々しい深傷の癒えてない日本国民を駆り立てた。

1945(昭和20)年の真夏、日本人が実験モルモットであるかのごとくアメリカは大量破壊兵器・原爆を二発も落とした。無条件降伏した夏の日から過酷な生活を強いられた日本人は、必死になって地獄から這い上がろうとしていた。


第五福竜丸被曝事件


その時、忘れもしない原爆の恐ろしさをまた見せつけた事故が起こる。1954(昭和29)年3月、遠洋マグロ漁船・第五福竜丸が南太平洋のビキニ島で行われたアメリカの水爆実験に巻き込まれた。


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キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)


危険水域の外側で操業をしていたのだが、死の灰を浴び、マグロを満載したまま静岡県の焼津港に戻ってきた。帰港後、乗組員1人死亡。大切なマグロは廃棄された。

だが、傍若無人の米国とソ連は、どちらがより強力な水爆をより多く製造できるかを競い続けた。米ソは、水爆実験を数千回行う。大気汚染どころの話ではない。地球を殺すのか。

フランスも割り込んできた。1960年2月13日、フランスの植民地アルジェリアのサハラ砂漠で原爆実験に成功して、フランス大統領ドゴールが夢見た「核大国」の仲間入りを果たす。



西鋭夫著『日米魂力戦』

第5章 戦争と平成日本 -1