お受験大国の子どもたち


日本で小学校から大学までの勉強は「マーク・シート」と呼ばれる受験専用の丸ペケ練習であり、7歳で『ハリーポッター』全巻が読めても、マーク・シー卜では計れないので「勉強」とは判断されない。大昔(私の小・中・高校の時代)、「作文」の時間と練習があったが、今では文章を書く試験なぞない。

美術、芸術、音楽、文学、武道やモノ作りが日本文化の主流であり、この大切な伝統を日本の若者たちに伝え、さらに発展させてゆくことが教育の重要な役目である。だが、小・中・高校では、色々な才能を持って生まれてくる子供たちを教科書の狭い枠にはめ込み、均一教育を強制する。枠にはまらない子供たちには「規則を破る子・落ちこぼれ」と烙印を捺し、入試で落とす。この制度で日本人の能力の幅がさらに狭まってゆく。


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国が教科書を作れるのか


文部科学省検定で教科書を書いて、中国や韓国の厳しい検閲を受けた後、全国の小・中・高校へ均一に配布する制度はもはや時代遅れの、時代錯誤の象徴である。想像もつかないほど、世界は情報時代で、全ての学術分野で「真実・解釈」は瞬時にモニターに現れる。国が「偉い先生」の役割をする必要はない。

すなわち、教科書を自由化して、色々な教科書が全国の学校で使用されるべきである。「悪い教科書」も出てくるだろうが、自然淘汰で廃刊になる。日本国民が「知識の自由化」の解放感を体験すれば、今までの「教科書教育」がいかに日本人の能力や才能を不完全成長させていたかが歴然と判明する。

教科書は宗教的な「聖書」のように取り扱われているが、私たちの才能を縛りつける副作用を引き起こしている。種々の学説や美しい文章が盛り込まれている教科書が存在し、学校別に違う教科書を使う日が今すぐ始まってもよい。日本人の勉強文化を活性化させることになる。


感動を与える学び


「教科書」を使わない学校教育があっても良い。

これほど書物が溢れている日本で、一冊の国定の教科書で子供たちの無限の能力を育てようと思う発想そのものが、子供たちの才能や可能性を否定している証拠だ。学校の先生たちは教科書だけを教える口ボットではない。

先生たちに教える自由、教材を選ぶ自由を与え、先生たちに独自の創作力を発揮させるべきなのだ。学びの感動は、優れた先生と生徒の接点で生まれる。


西鋭夫著『日米魂力戦』

第5章 戦争と平成日本 -19