授業評価システム


(2) 戦後60年間、教授や授業を評価するシステムをつくることに大反対をしてきた教授たちは、今や自己管理ができない集団として己をさらけ出している。業績評価なし、勤務態度の監査なし、学生による授業内容の審査なしで、日本の教授は一度雇われると終身クビにならない職業だ。

教授たちは特権を守ることを目的にした「教授会」を結成し、外部からの監査に形相を変えて反抗する。政治的な圧力に毅然として対抗するためだというのが教授会の建前である。70年前、軍部によるマルクス主義者の教授たちに対して醜い圧力があったのは事実である。その反動で、戦後の大学では、すでに60年間もマルクス社会主義が「進歩的」な姿勢だと信じられている。


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昔の政治的圧力は色あせた看板になっているのにもかかわらず、その仮想脅威を都合良く使い、外部からの客観的な業績評価を拒んでいるのだ。独占企業団体(カルテル)が自由競争を怖がっているみたいだ。


学生をバカにした論法


「学生による授業評価」について一言。教授たちの間では、学生がクラス評価をすることに根強い反対がある。反対を通り越し、「嫌悪感」を抱いている。反対の理由は、学生(18歳から22歳)が教授を評価できるほど専門的な知識を持っていない、学生評価は「人気投票」になるだけで授業の内容を計れない、である。

この反対理由が、高い授業料を払って出席している学生をいかにバカにしたものであるか教授たちには自覚がない。料理ができなければ、「味」が美味しいか不味いか判別できないと言うのと同じ論法である。プロの野球選手でなければ、野球の醍醐味が分からないという論法だ。

これだけ多くの大学があり、無数のクラスがあるにもかかわらず、それぞれの大学で「人気のある授業」がいかに少ないことか。学生に人気のあるクラスは間違いなく素晴らしい学びの場である。学生の評価能力を過小評価してはいけない。すなわち、授業評価反対の教授は、評価されるのが怖くて逃げているのだ。


悪平等の弊害


アメリカの大学で、学生評価で1番2番になった教授は土地の新聞に書き立てられ、学長から金一封を授けられる。年俸も上がる。これがアメリカでいう「平等」の実践である。才能、能力、実績に応じて評価することが、真の平等なのだ。そうでなければ、何のために必死になって実績を積み上げようと努力をするのか。努力もしない、業績もない者たちと一緒に扱われること(悪平等)は、日本人も大嫌いである。

大学生に対する態度に関して日米間で驚くほどの違いがある。その一例。日本の大学にある「大学新聞」は、米国にもある。違いは、ここアメリカの学生記者は教授会に参席を許され、教授会の審議を新聞で公開する。また、教授会を傍聴したければ、参席できる(議論には加われない)。それに比べると、日本の教授会は秘密結社の密議のようである。



西鋭夫著『日米魂力戦』

第5章 戦争と平成日本 -24