3016名の犠牲者


高いビルを支えていた鉄筋とコンクリートとガラスは粉末の灰燼と化し、青空に舞い上がり、また摩天楼の谷間を死の火砕流のような勢いで広がってゆく。第一機目の激突を受けゴウゴウと燃え上がっている北ビルもついに耐えきれず、後追い心中をするかのように崩れていった。10時28分。死者2792名(366人の消防士と警察官と救援隊員たちを含む)。

第三機目が首都ワシントンのペンタゴン(国防総省)の正面玄関に突っ込んだ。炎上。死者184名。第四機目は、ホワイト・ハウスか米議会を標的にしていたのだが、勇敢な乗客に抵抗されペンシルベニアの林に墜落し炎上した。死者40名。

死者総数、3016名。


有色人種への眼差し


昼過ぎ、私は研究室から夏の青い海辺が見渡せる大きな別荘に帰った。別荘は、私を招待した研究所が借りてくれていた。自動車で15分の道のりなのだが、永い在米生活で一度も体験したことのない想いを搔き立てられた。

白人ほぼ100%のニューポートの下町をゆっくり走った。市民の顔が引きつっている。私を見る目が「お前は移民か、旅行者か、まさか......」と疑いの目つきである。人種差別をしてはいけないと自覚しているのにもかかわらず、防衛本能が人種別に差別をしている。私に敵意を示しているのではない。抑えることのできない警戒心を見せている。

1941年12月7日(米時間)日本が真珠湾を奇襲攻撃した直後の米国は、このように肌で感じ得る緊迫した雰囲気だったのだろうか。歴史の白いページに、これから起こる悲劇が書かれてゆく時の、後戻りができない時の、恐怖と戦くような期待感で指先が震える興奮に包まれた光景だったのだろう。日本国民も、昭和16年12月8日、米国民と同じような未知へのたかぶりで震えていたのだろう。


揺らめく星条旗


この研究所に1ヶ月滞在し、週末以外、毎朝毎夕15分の道のりを自動車で通勤した。街には警察官と消防隊員が溢れていた。市民に一時的でも安堵感を与えようという配慮である。消防士たちは、黒いゴム長靴を持ってニューヨークで亡くなった同胞のために募金を募っていた。私も二度献金をした。消防士は日本人の顔を見て、一瞬ハッと反応したが、私がほほえむと、彼も努力して笑みをつくった。

星条旗の嵐で街の風景が変わった。米国独立記念日は7月4日だが、これほど旗がひらめいたことはない。全ての家々に、全ての店先に星条旗が掲げられた。走っている車にも、星条旗がはためいていた。

恐怖と怒りと防衛本能で身を固くしているニューポート市民たちの私を見る目は、変わらない。だが、私は攻撃されるとか、差別語を投げつけられるとか、警察官に一時停車を求められるとか、思ったことはなかった。


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西鋭夫著『日米魂力戦』

第5章 戦争と平成日本 -29