顔の見えない支配者


占領中のマッカーサーの行動は、彼自身が「征服者の風格」という幻想に病的に侵されていたのではないかと思わせるふしがある。例えば、国家の行事の場を除いては、彼は決して日本人と同席しなかった。彼が東京を離れたのはわずか二度である。広島と長崎を訪問しなかったし、する気もなかった。執務室に電話を設置することすら許さなかった。


マッカーサーが日本人と会おうとしなかったのは、自分は東洋人の心を完全に理解していると信じ、東洋人をより効果的に統治するには、力、権威、階級差に頼ったほうがよいと判断したからだ。


東洋人の劣等感


中国経済復興についてのトルーマン大統領の特使で、東京に立ち寄ったエドウィン・A・ロックは、次のように卜ルーマンに報告している。


「東洋人は劣等感に悩んでおり、このため戦争に勝てば、"幼児的残虐性"を発揮し、逆に、負ければ奴隷のように服従すると元帥(マッカーサー)は言い、また、東洋人は征服されると、殺されようが、面倒を見てもらおうが、それを運命だとして完全に自らを征服者の手にゆだねる、とも語った。元帥は、この態度が日本中に広まることを望んでいない」


このマッカーサーの日本人観は、1945年10月、すなわち占領が始まったばかりの時であった。日本人についてのマッカーサーの見解は、6年間の東京での統治を通じて変わることはなかった。


マッカーサー凱旋演説


朝鮮動乱(朝鮮戦争、1950〜53年)の遂行に関し、トルーマン大統領との意見の違いを公の席で何度もしゃべったマッカーサーは、激怒した卜ルーマンに解任された。
 
マッカーサーは米国へ大英雄として帰っていった。サンフランシスコでもニューヨークでも、彼の行く先々で盛大な歓迎会が行われた。それを十分堪能したあと、彼は米上院軍事委員会と外交関係委員会との非常にまれな合同公聴会に出席し、そこで日本人の能力について論評を下した。

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「もしアングロサクソンが、科学、芸術、神学、文化などの発展において45歳だとすると、ドイツ人はわれわれ同様十分成熟している。しかし、日本人は長い歴史にもかかわらず、まだまだ勉強中の状態だ。近代文明の尺度で計ると、われわれが45歳であるのに対し、日本人は12歳の子供のようなものだ。勉強中は誰でもそうだが、彼らは新しいモデル、新しい理念を身につけやすい。日本では基本的な概念を植えつけることができる。事実、日本人は生まれたばかりのようなもので、新しいものの考え方に順応性を示すし、また、どうにでもコントロールが利くのだ」



西鋭夫著『富国弱民ニッポン』
第2章 富国日本の現状−6