教育界の影の支配者


1946年2月、教育使節団はワシントンで準備会議を開いた。国務省(アメリカの外務省)は、日本に関する解説資料を団員に配布したし、日本史の権威である英国人ジョージ・サンソムの講演も行われた。訪日途中に立ち寄ったホノルルとグアムで、団員たちはさらに説明を受けた。教育使節団一行は2グループに分かれて、1946年3月5日と6日に、それぞれ東京に到着した。
 
3月7日朝、教育使節団員は、広報活動に関して説明を受けた。GHQの広報官ドン・ブラウンは、「日本側はこの教育使節団に大変な関心を抱いている。しかし、教育使節団の特別な性格から見て、団員の発言はすべて最高司令官の言葉と受け取られるので注意されたい」と言った。
 
新聞記者出身のブラウンによれば、「日本のジャーナリズムはそれ自体の劣悪さに加えて、アメリカ・ジャーナリズムの最も悪い面をすべてまねしている。新聞報道の真実性に対する尊敬の念はほとんどない。日本の新聞記者は、団員の発言を奇妙な具合にしてしまうのに長けている」と言い、団員の一人、コンプトンは「それなら、われわれはロをきかなければきかないほど良いというわけか」と尋ねると、ブラウンは「そのとおりだ」と答えた。


誰が「報告書」を書いたのか

教育使節団はわずか3週間滞在し、日本の教育を大改革した「報告書」を書いた。この「報告書」が戦後日本教育の原点となる。
 
私は1978年3月8日、ニューヨークで米国教育使節団の団長だったジョージ・D・ストッダードと会い、「報告書の執筆者は誰だったのか」と尋ねた。

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「ほとんど私が書いた」というのが、彼の答えだった(1946年当時、ストッダードはアメリカの有名校イリノイ大学の学長であった)。

私は1977年11月21日、やはり同使節団の団員であり、当時、スタンフォード大学の教育心理学教授をしていたアーネスト・R・ヒルガードに同じ質問をしていた。

「報告書の執筆者はジョージ・ストッダードと私、それに今、名前を思い出せないが、もう一人の三人であった」と答えた。

「それでは、他の団員は何をしたのか」と聞くと、「あちこち観光旅行に行ったり、夜の街に遊びに出かけていた」という答えだった。




西鋭夫著『富国弱民ニッポン』
第2章 富国日本の現状−9