陛下の真意

ストッダード教育使節団長が東京にいる間に起きた興味あるエピソードがある。

1946年3月、天皇陛下(昭和天皇)はストッダードに皇太子殿下(今上天皇)のためにアメリカ女性の家庭教師を探してくれるように頼んだ。天皇陛下は、皇太子殿下が日本の将来の福祉という大きな目的のため「人身御供」となることを国民に示したかったようだ。とはいえ、これは賢明な天皇外交であった。天皇陛下は教育使節団員を皇居に招いてもてなしさえした。

だが、教育使節団員のほうは、天皇陛下にそれほど感銘は受けなかったようだった。エミリー・ウッドワードは「天皇はおどおどした小さな男で、その身辺に起きている事柄に、明らかに何から何まで神経をとがらしていた」と露骨に侮辱的なことを言っている。

候補者の選定


ストッダードはアメリカに帰った後、熱心にこの家庭教師を探した。愛国心をあふれさせた口調で戦時国債をアメリカ国民にどんどん買わせた有名な歌手のケー卜・スミスは、ラジオで日本の天皇が皇太子の家庭教師を求めている、と全米に報じた。天皇陛下に直接応募してきた女性も1人いた。

ストッダードは最終的に二人の女性候補者を皇室に推挙した。1人はハワイ大学のミルドレッド・A・チャップリン、もう1人はニューハンプシャー州のエリザベス・グレー・ヴァイニングであった。

1946年8月6日、マッカーサーはストッダードに「皇室はヴァイニングに決定」と電報を打った。ストッダードは直ちにヴァイニングに招請を受諾するかどうか聞いた。ヴァイニングはすぐに受諾した。

英語圏への留学構想


多くの作品を書いている作家で未亡人のヴァイニング(1902年生まれ)は、1942年に書いた『アダム・ザ・ロード』で有名なニューベリー賞を受賞した人で、皇太子殿下の家庭教師を1950年まで務めた。その日本の体験を本に著し、1952年、『ウィンドーズ・フォア・ザ・クラウン・プリンス』と題して出版した。

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明仁皇太子とバイニング夫人



皇太子殿下の新教育に喜んだ天皇、皇后両陛下は、1949年1月、マッカーサーの政治顧問代理だったウィリアム・J・シーボルド(国務省の高官)に内々で、15歳になった皇太子殿下を「アメリカの高等学校へ入れ、ついでイギリスの大学に行かせたい」と願い出た。

マッカーサーはこの考えに同意はしたが、「まず英語が話せるように勉強しなければならない。留学はそれからのことで、アメリカの高校からではなく、アメリカの大学の4年制普通課程に直接行くようにしなければならない」と答えた。




西鋭夫著『富国弱民ニッポン』
第2章 富国日本の現状−16