新憲法の起草者


翌10月9日、幣原喜重郎内閣が成立した。近衛は内大臣府御用掛になった。極めて強力な地位である。その権能は具体的には憲法修正、改定などを含んでいなかったが、近衛はそれに着手した。


一方、10月11日、マッカーサーは幣原新首相に、1889年(明治22年)発布の明治憲法を改正するようにと命じた。同日、近衛は天皇から憲法草案に着手するよう正式に命令を受けた。つまり、同じ日に憲法改正の公式委員会が2つでき上がったのである。

40f.jpg近衛文麿


2日後、幣原内閣は国務相松本丞治博士を「憲法問題調査委員会」の委員長に任命した。近衛が新憲法の起草者に任命されたことは、日本ばかりでなく、アメリカでも猛反対の声が上がった。彼は1937年7月7日、日本が中国侵略(盧溝橋事件)を行ったときの首相であり、「東亜新秩序」を唱道し、太平洋戦争への道を開いた人物であったからだ。


しかし、1945年10月23日、アチソンは、マッカーサーと参謀本部あてに、「近衛公に対して一般の日本国民から批判が上がっているが、現在のところ、改正手続きを無理に変えさせる理由はないと思われる」と書いている。


この一見毒のない表現は、マッカーサーとアチソンが近衛の憲法改正の任務に承認を与えたものであった。


米メディアに叩かれたアチソン


マッカーサーとアチソンは日本の新聞を無視することはできたが、米国の新聞についてはそうはいかなかった。


国務省はアチソンに対し、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙」の10月31日付社説を打電した。社説は辛辣であった。


「米国の極東での失策の最もバカげたものは、近衛文麿公を日本新憲法起草者に選んだことである。まさに、少年院の規則制定者に殺し屋を選んだようなものだ。日本の民主憲法を草案する男として、米国のお墨付きで彼を選んだのは愚の骨頂である」


アチソンの弁明


アチソンはトルーマン大統領に書簡を送り、この「愚の骨頂」に自分は全く関係ないと逃げを打っている。


「近衛の活動には奇妙なものがあります。10月4日、彼が自分のイニシアチブでマッカーサー元帥を訪問した際、私は同席していました。元帥は政府の行政機構を改革すべきであると語ったが、近衛の通訳は咄嗟に正確な訳が思い浮かばず、単に脳裏をよぎった言葉 "憲法は改正すべきである" と口にしてしまった(通訳はこの件について、のちに私=アチソンに証言しています)」


アチソンは弁明を続けて、「近衛は3日後、私のところに来て憲法改正に関し、私の助言を求めてきた。私は、彼と彼の同伴者たちに一般論の形で明治憲法で悪いと考えるところを伝えた。そのあと、彼は天皇から憲法改正に着手するように任命されたのです」と言っている。



西鋭夫著『富国弱民ニッポン』
第2章 富国日本の現状−19