日本政府の動揺


ホイットニーはマッカーサーの承認を得て、2月13日、いわゆる「マッカーサー草案」を、松本と当時外相の吉田茂に渡した。


マッカーサー草案を吉田と松本に手渡した時、ホイットニーは日本側が速やかに改正案をマッカーサー元帥に提出しなければ、「天皇に何が起こっても知らないぞ」と脅し文句まで付け加えた。


46f.jpgホイットニー(左)とマッカーサー(右)


その時、吉田と松本は、ホイットニーの言葉によれば、「目に見えて驚きうろたえ、問題を検討し閣議で討議しなければならないと語った」。閣議も「明らかに大衝撃を受け、マヒ状態に陥った」。


日本政府内にも新憲法支持派と明治憲法擁護派の分裂が起こり、新憲法の検討は全く前進しなかった。幣原首相は行き詰まって、マッカーサーに助言を求めに行った。2月21日、すなわち、マッカーサー草案が日本側に手渡されてから1週間後であった。


象徴としての天皇

マッカーサーは幣原首相に、「自分は日本の幸福を第一に考えているが、ソ連とオーストラリアは、日本がやがて強国になり、連合国に報復するのではないかと怖れている」と伝えた。彼がこれをロに出したのは、日本政府もソ連とオーストラリアが天皇を戦犯として絞首刑にしたいと望んでいることを熟知していたからだ。そのようなソ連やオーストラリアの強い反日感情を抑えるために、マッカーサー草案では、ことに「天皇の定義を国家の象徴とし、戦争放棄条項を強調したのである」と、マッカーサーは幣原首相を諭した。


幣原内閣の分裂は続いたが、1946年3月2日、最初の日本政府草案をどうにか作成した。同草案は3月4日、マッカーサーに渡された(松本案は2度と持ち出されなかった)。


「内閣草案」から新憲法へ


マッカーサーの側近と日本政府代表の間で緊密な討議が行われ、翌日、第2の日本政府草案、いわゆる「内閣草案」ができ上がった。同案は、マッカーサー草案に極めてよく似ていた。即日、マッカーサーが翌日、全国に発表された。


1946年6月26日、政府草案は日本国会での審議のために提出された。マッカーサーの声明がその草案に付されていた。


「いま議会に提出された政府憲法草案は、日本の文書であり、日本国民のためのものである」


衆議院は8月2日まで討議を続け、421対8で採択した。反対8票のうち6票は共産党であり、同党は天皇制廃止を要求していた。9月と10月、貴族院が審議し採択した(この審議が最後の仕事となり、この後、貴族院は廃止され参議院の誕生となる)。



西鋭夫著『富国弱民ニッポン』
第2章 富国日本の現状−25