吉田茂とマッカーサー

11月3日(明治節)、天皇は同法を公布し、1947年5月3日、憲法が施行された。以来、修正は全くされていない。


マッカーサーは新憲法を「占領の最も重要な成果」と誇らしげに叫び、吉田首相も「太平洋戦争終結後の最も重要な改革である」と同意見を述べた。


47f.jpg吉田茂(右)とマッカーサー(左)


マッカーサーがこの新憲法にいかに喜々として興奮していたかは、彼の1947年5月2日の吉田首相あての書簡にはっきり出ている。彼は、それまで禁じてきた日本国旗の掲揚を許可した。「この国旗掲揚を、日本の恒久平和時代の到来を画するものとせよ」としたのだ。


吉田は、「日本国を代表して、私は、閣下が日本国民に国旗掲揚を国会議事堂、最高裁、首相官邸および皇居の中で、無制限に掲揚できるよう許可されたことに対し、深い感動と賞賛の意を表明したい」と答え、さらに、空に翻る国旗は日本国民に「真の民主的で平和な国になるよう、よりいっそうの努力」を鼓舞することは間違いないと伝えた。


責任逃れのマッカーサー

マッカーサーは回想する。


「だが、私はアメリカ製の日本国憲法を作っておしつけ、命令でそれを採択させるということはしなかった。憲法改正は日本人自身が他から強制されずに行うべきものだった」


彼の自己弁護が、真実を知っている日本人にシラジラしく聞こえるのは当然であろう。


新憲法の中で最も論議を呼ぶ条項は、いわゆる"戦争放棄"および"自衛放棄"の第9条である。これを書き入れたのは誰だ。


マッカーサーは、自分には全くその責任がないと言っている。彼は、1964年に書いた『回想記』の中で次のように言う。


「(幣原首相は)1946年1月21日正午、私の司令部に到着し、ペニシリンについて礼を言った。しかし、私は彼がどこか当惑げで躊躇しているのに気づいた。そこで、私は彼に言いたいことがあるなら率直に話すように勧めると、彼は新憲法が最終決定する時には、いわゆる戦争放棄条項を含めるよう要求した。彼はまた、いかなる軍事機構も禁止するよう提案した」


踏み躙られた政府案

この会見が1月21日に行われ、松本案がマッカーサーに提出されたのが10日後の2月1日であることに注目したい。


松本草案は、幣原が"新憲法"として心に抱いていたものである。松本草案のほかには政府案はなかった。


幣原が「新憲法が最終決定する時には......」と言ったと、マッカーサーがわざわざその『回想記』の中で特記したことで、マッカーサーは自分が隠そうとしていた真実を無意識にさらけ出してしまっている。



西鋭夫著『富国弱民ニッポン』
第2章 富国日本の現状−26