「自動車」で測る裕福さ

私の家でのパーティーに、もちろんみんな自動車で来る。アメリカでは自動車が、それを運転する人の「社会的地位」「財力」「趣味の良さ・悪さ」、そして「人格」までも反映すると思われている。思われているのではなく、みんなそう信じている。


スポーツクラブの友人たちは美しい車で来る。ドイツおよび日本製の高級車だ。高価なスポーツカーも次から次へと駐車する。私の学友たちは古い車で来る(みんなが欲しがるクラシックカーではない)。


パーティー談義も「金」

裕福な人とそうでない人とでは、身に着けている衣服も質的に違う。だが、テーブルの周りに腰かけ、夕食が始まり、話題が政治や社会問題になると、私の学友たちは目が覚めるような雄弁を振るって話す。スポーツクラブから来ている友達も真剣に聞いている。大学院のゼミでの熱気を帯びた討論のような雰囲気になる。ワインも入っているので、数十本のロウソクの炎でみんなの顔がより紅潮し、美しく見える。蘭も色あざやかで、香りもすばらしく、パーティーも盛り上がってくる。

そして、話題がビジネス、金儲け、海外旅行、自動車、不動産に移っていくと、スポーツクラブ族が喋りだす。

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財政的に苦しんでいる学友たちは居づらそうになる。まさか、「金など人間の生活において大切ではない」とは思ってもいないので、黙って聞いている。


スポーツクラブ族も、私の学友たちが、自動車のことや着ているもの、そしてビジネスの話に参加しないのを見て、ドクター・西と一緒に博士号を取ったのだから「頭は良い」のに違いないが、「金を持ってない」学友たちは何か「人格的」に欠陥があるから貧しいのではないか、と疑いだす。


差別を生む「貧富」の差

差別である。金があるかないかで差別する。アメリカ社会は「人種差別」の国と思われているが、真実は「貧富差別の社会」だ。日本では想像しにくいほどの厳格な差別で、「金持ち」と「貧乏人」はあたかも人種的にも違うのではないかとさえ思われている。


私の家でするパーティーでも、私が招待されるパーティーでも、人種は交ざっている。同じぐらいの裕福さの人たちが集まっている。そこには白人も黒人も東洋人もいる。


もっとはっきり言えば、裕福な黒人は貧しい黒人とはつき合わないし、黒人だからといって別に団結もしない。白人たちも同様に、金持ちの白人は貧乏人の白人とはまず個人的につき合わないし、互いをパーティーに呼ぶようなことはない(貧しい白人は"ホワイト・トラッシュ"と呼ばれる。Trashは「ゴミ」の意味)。


この「貧富差別」は私の長いアメリカ生活の間、十分に見せてもらったし、体験もした。




西鋭夫著『富国弱民ニッポン』
第3章 富国日本の現状−4