旅立ち



私は、美しいキャンパスを持っている関西学院大学(兵庫県西宮市)の英文学部を1964年(昭和39年)に卒業し、その年の夏(7月上旬)、横浜からアメリカン・プレジデント社のウィルソン号(客船)でホノルルへ向かった。今は客船はべらぼうに高いが、当時はまだ船のほうが安かった。

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7泊8日の旅で太平洋を半分渡った。印象に残っているのは海の色の美しさと色の変化。そして、海の広さ。私はこの時まで、体の周りに建物も、山も、川もない風景を見たことはなかった。

深夜、上甲板に立ち、夜空を見上げた時、半円のドームの中に天から水平線まで、切れ目なく星が覆っていた。星は本当にキラキラと輝く。「星が降る」とは、こんな夜をいうのかと感動した。


客船での思い出


この客船で、もう1つ印象に残っているものは食事の回数だ。朝食、昼食、夕食とあり、その後、夜食の「ビュッフェ」があった。「ビュッフェ」という単語も、この時初めて知った。そして、量が今まで見たこともないほど多いのだ。

それぞれ、座席は決まっており、私のテーブルには中年のスウェーデン人夫妻、コーネル大学大学院へ留学する日本人男子学生(コーネルはアメリカの名門校)、アメリカへ移民する17歳の中国女性(美しかった)、若いアメリカ人のウィルソン号の航海士がいた。

みんな英語で話し、和気あいあいの楽しい食事だった。私の英語が明らかに一番へただったが、みんなニコニコと我慢して聞いていてくれた。毎夜、ダンスパーティーがあり、スローダンスも生まれて初めて習った。


ハワイでの日々


ハワイに1ヶ月半ほど滞在し、「英会話」の猛勉強をするはずであった。当時、美しいワイキキはまだ旅行者の数も少なく、今現在は広い自動車道路があるが、当時はそれもなく、ヤシの木も多かった。みんな、ゴムゾウリでペタンペタンとゆっくり歩いていた。素朴だった。

英会話は上達しなかったが、ボディ・サーフィングはうまくなった(ハワイ島のヒロ市に永住している私の兄夫妻には、いろいろと世話になり、学費の援助もしていただいた)。

8月末、ノースウエスト航空でホノルルからシアトルへ向かった。機内はガラガラに空いていたし、スチュワーデスもとても親切で、私は「留学とはすばらしい」と満足感を味わっていた。


西鋭夫著『富国弱民ニッポン』

結び/後記 富国日本の現状−4