「ポーランド」事件


シアトルへ着く30分ほど前に、機内放送があり、次のように言った。"Due to heavy fog in Seattle, we will be landing in Poland."と聞き取れた。

「ポーランド!?東ヨーロッパのポーランド!?いつの間に、ポーランドに来たのだ!?ポーランドへのビザは持ってない!言葉もわからない!シアトルではホスト・ファミリーが出迎えに来ているのに...。」

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私がパニック状態のまま、ノースウエス卜は早朝の霧の深いポーランドに着陸した。ガランとした灰色の小さな滑走路だったので、「ここはポーランドに間違いない」と確信した。人間はパニックに陥ると思考が単純になる。


英語が聴き取れない


どうすればアメリカ西海岸のシアトル市まで帰れるのだろうかと必死に考えながら、誰もいない空港ロビーを淋しく歩いていたら、東洋人の男(国籍不明)に出くわした。彼は日本語ができた。「どちらまで」と聞いてきた。

「ワシントン大学へ行きます」と、はっきり言わないように努めた。シアトルにある大学に行くのに、ポーランドで何をしているのかと思われてはいけない。

「ああ、ここから30分ぐらいですね」と流暢な日本語で言った。「ここはどこですか?」「ポートランドです。シアトルの南にあるオレゴン州の街です。」「ああ、そうですか」と平静をよそおったが、内心、飛び上がるほどうれしかった。


シアトル到着


機内放送でスチュワーデスは"Portland"と言ったのだが、"t"の発音が聞き取れなかったため、「ポーランド」と聞こえたのだ。ホノルルからポーランドへ飛ぶのは15時間ほどかかるのだが、英会話など楽勝と思っていたので、このような悲劇になった。「留学」が怖くなった。

予定より1時間ほど遅れてシアトルに着いた。ホスト・ファミリーのミセス・アルタ・スウィニーが待っておられた。芝生の美しい大きな家に住んでおられた。ミスター・スウィニーはシアトルに本社のある保険会社の社長だった。

慶応大学を卒業した、私と同年の北村和男君も、このスウィニー家にお世話になっていた。彼はワシントン大学で政治学を専攻していた。彼と私はよく気が合い、今現在でもつき合っている(皇居の近くにある彼の豪邸でご馳走になる付き合いだ)。


西鋭夫著『富国弱民ニッポン』

結び/後記 富国日本の現状−5