大学教授の厳しさ


大学側も6年目の鑑査を厳しいものにするのは当然である。アメリカの大学で若い助教授たちは、日本の大学でのんびりしている教員たちには想像もつかないほど、研究に没頭し、必死に論文を書いている。まさに、「出版できなきゃ、滅びろ」の掟だ。

それゆえ、出版できる高い水準の論文を書く力を、大学院で身につけなければならない。教授も院生にその力がつくようにしごかねばならない。教授たち自身も論文だと年間少なくとも3本ぐらい書き上げなければ、大学におれないほど肩身が狭くなる。

論文の年間3本が大変なのは、アメリカで学術雑誌に論文を掲載してもらうのが実に難しいからだ。論文を書いたから、掲載してもらえると思うのは甘い。聞くところによると、500本投稿された論文中、実際に活字になり学術雑誌に出扳されるのは2本か3本ということだ。助教授たちの目が血走っているのも、それなりの理由がある。


ターム・ペーパー


「ターム・ぺーパー」というものがアメリカの大学にはある。日本でいう「リサーチ・ぺーパー」だ。大学院ではこの「ターム・ペーパー」で成績が決まる。英会話はできなかったが、私は英文法をみっちりと日本の中・高・大学で教えられていたので、文章の土台はできていた。単語もたくさん知っていた。研究調査は大好きだった。エデルスタイン教授の研究室の前にあった院生たちの大部屋で夜遅くまで、あるいは朝方まで論文(ターム・ペーパー)を書いていた。

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ドクター・エデルスタインは、私の提出したターム・ペーパーを手に持ち、しばらく私の顔を凝視した。彼自身の頭の中の整理に懸命になっている表情だった。

"Great work!"と彼は微笑んで私を褒めた。彼の凝視には、英語もろくに話せない留学生がなぜ大学で使う単語で論文が書けるのか、という複雑な気持ちがあったのだろう。


自信が出てきた2年目


彼の態度が変わった。「言葉のできない生徒」を諭す態度から、「論文の書ける院生」への変化だ。私のタドタドしい英語を身を乗り出して聞いてくださった。

私の友達になったコミュニケーション学専攻の院生で、同年入学したのが5人いた。みんな毎日毎夜、勉強していた。しかし、金曜日の夜は、彼らと彼らの恋人たちと徒党を組んで中国料理を食べに行き、その後映画に行き、誰かのアパー卜に戻り、午前2時頃までワイワイといろいろなことについて議論し合った。土曜日はまた勉強し、夜にはよくダンス・パーティーがあった。私は最初の1年目は、金・土は休むヒマもダンスする余裕もなかった。

2年目になると自分の言いたいことはほぼ表現できたし、専門書も1時間で15ページほど読め、ターム・ベーパーも自信を持って書けるようになった。




西鋭夫著『富国弱民ニッポン』

結び/後記 富国日本の現状−9