blog133.jpgFrom: 岡崎 匡史
研究室より

1935(昭和10)年2月19日、貴族院本会議中、陸軍軍人で貴族院議員の菊池武夫(きくち たけお・1875〜1955)が舞台の主役になる。


菊池武夫が東京帝大教授の憲法学者・美濃部達吉(みのべ たつきち・1873〜1948)の天皇機関説を「学匪」(がくひ)として痛烈に批判したからだ。

天皇機関説

天皇機関説は、ドイツの公法学者ゲオルグ・イェリネックに代表される「国家法人説」に基づいている。統治権の主体は天皇ではなく国家にあり、天皇は国家の機関としてそれを行使するというものである。

大正期には、憲法学界で定説の位置を占めて、高等文官試験も美濃部の天皇機関説でないと合格しないと云われていた。大正デモクラシーを支えた国家公認の学説であった。

昭和天皇も憲法の「国家の元首」とは、「即ち機関説なり、之が改正をも要求するとせば憲法を改正せざるべからざることゝなるべし」と、天皇機関説が当然のことであると理解していた。

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美濃部達吉

累を皇室に及ぼさず

天皇の地位は、通例、大日本帝国憲法第3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」。そして、第55条の「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責二任ス」によって保障されていた。

美濃部は、この第55条を「大臣ニ特別ナル責任トハ即チ自己ノ所爲ニ非ラサル君主ノ所爲ニ付テ其責ニ任スルノ謂ナリ」と解釈した。 すなわち、すべての国務について、天皇は大臣の輔弼をうけて大権を行使する。

輔弼がなければ、天皇は大権を行使できない。これは天皇の大権を制限しているように思われる。しかし、裏を返せば、政治責任は大臣がすべてを負い、天皇の責任を問うことはできない、ということが真の目的だ。

大正期の政党政治下では、天皇が過誤の責任をとって、皇室の尊厳が傷つけられることを回避させた。「累を皇室に及ぼさず」ということが、最高の政治道徳とされていたからだ。


ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。
・芦部信喜『憲法―新版・補訂版』(岩波書店、1999年)
・立花隆『天皇と東大』(文藝春秋、2005年)
・本庄繁『本庄日記』(原書房、2005年)
・美濃部達吉「日本憲法ニ於ケル大臣責任ノ規定」『法学協会雑誌』法学協会事務所、第21巻7号、1903年